【菊池氏 vol.1】 菊池氏の起源(前)
菊池氏は中関白家の子孫?
近代まで菊池氏は藤原道隆(中関白)の子孫であると考えられてきました(中関白家 子孫説)。
その根拠は菊池武朝が弘和4年(1384年/至徳1年)南朝に奉じた「菊池武朝申状」(※1)の中にある一文です。
“中関白(※2)藤原道隆の四代後の子孫である太祖・大夫将監則隆が後三条天皇の御代の延久年中(1069年~1074年)に初めて肥後国菊池郡に下向して以来、武朝に至るまでの十七代は凶徒(悪行を働く者)に味方せず朝家(天皇の一家)に奉仕してきました。”
ここで菊池武朝は藤原道隆の四代後の子孫である「大夫将監則隆」という人物が菊池の始祖であると述べています。
では、まず『続群書類従』所収の「菊池系図」3篇を見てみます。
これらの系図では菊池武朝が述べる通り、道隆の子孫に「則隆」がいます。そして、いずれも藤原道隆の子息・藤原隆家の子孫となっています。
この藤原隆家という人は寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇(※3)の際に大宰権帥(※4)として大宰府府官や九州の在地勢力を指揮して刀伊撃退に成功、九州と関係が深く著名な人物ですが、この「藤原隆家の子孫」とするのが、菊池氏の起源をめぐる諸説、とりわけ「中関白家 子孫説」の中で主流となっていた「隆家子孫説」です。
ただし、「隆家子孫説」をとる系図が隆家から則隆までどのように繋げているかはまちまちで、こちらの3篇の系図でも①は隆家から「政則」を挿んで則隆へ繋げており、②③は隆家の子「経輔」から、さらにその子として「政則」を挿んで則隆へ繋げています。
そこで次に『尊卑分脉』(国史大系本)にある藤原道隆(中関白)の系図を確認してみます。
いかがでしょうか…。『尊卑分脉』は菊池武朝と同時代(14世紀末)に編纂された系図集ですが、中関白の子孫で「則隆」という人物は見当たりませんし、それを思わせるような人物もいません。さらに「則隆」の父であるはずの「政則」という人物も同じく経輔の子に確認できませんし、「政則」の可能性を思わせるような人もいません。
このように『尊卑分脉』では「政則」「則隆」を見つけられず、『続群書類従』所載の「菊池系図」ですら藤原隆家から菊池氏始祖とされた則隆へ繋がる系譜がまちまちではっきりしない状況だったのです。
しかし、徳川(水戸)光圀(1628年~1701年)のもとで編纂された『大日本史』では、
“菊池武時の祖先は、中納言藤原隆家から出た。隆家の孫・則隆が大宰少監となって、延久2年(1070年)肥後に赴いて菊池郡に住んだ。よって子孫はここに住み続けて、代々有名な家柄となった。”
と記述して「隆家子孫説」を採用していますし、近代の歴史学者・平泉澄先生も御著書『菊池勤王史』(1941年)において、
“抑も菊池氏はその源流を藤原氏に発する。即ち数多くの菊池系図のうち、信用すべき諸本のいづれに於いても、藤原隆家の子孫、肥後の菊池に土着して、菊池氏を称したといふ点は、一致して居り、之を動かす事は出来ないのである。”
と述べられ、隆家から則隆へ至る系譜については30本近い系図を点検された結果、「隆家ー経輔ー政則ー則隆」と繋いでいる系図が21本あり、そのうち「菊池男爵家所蔵菊池系図」と「広福寺所蔵菊池氏総系図」の2つが最も古い形態をしていて信用すべきものであるとされて、「隆家子孫説」を支持しておられます。
なお、『尊卑分脉』に「則隆」の父であるはずの「政則」も見えないことについて『大日本史』では、
“系図によれば隆家から政則が出た。政則は成長して武勇の者となった。隆家が大宰権帥となった際、これに従って九州に下った。寛仁3年(1019年)刀伊の賊が西の辺境を侵略した時(刀伊の入寇 ※3)、政則はこれを防いで功績があったため、九州の将士へ政則の指揮に従うよう詔を発し、錦の御旗と天皇がお詠みになった和歌を与えてこれを賞した。これが則隆の父である。調べてみたところ、小右記(※5)・朝野群載(※6)に詳しく刀伊の賊を防いだ者の名前を載せているが、政則はなかった。また尊卑分脈や武朝申状ともに政則を載せていない。よって政則は除外した”
とあり、『菊池勤王史』においては
と推測されています。
「隆家子孫説」以外の「中関白家 子孫説」
前の節でお話しした「隆家子孫説」は「中関白家 子孫説」の中で主流となっていたものですが、菊池武朝の時代(南北朝時代末期)ではまだ唱えられていなかったと考えられます。
なぜなら、冒頭の『菊池武朝申状』では“道隆四代の後胤”としているだけで藤原道隆のどの子からの子孫なのか、まして武朝も知っていたであろう著名な隆家の名前が出ていないからです。
(もし隆家の子孫なら当然武朝は申状の中に記したと思います)
つまり、菊池武朝の時代では藤原道隆の子孫とは聞いているけども道隆の子の誰からの系統なのかわからず、ただただ「道隆四代後胤の則隆が菊池の氏祖」というのが伝わっていたと考えられます。
そしてさらに時代が下り、系図を作る際に道隆の子の誰からの系統なのかをそれぞれ様々に設定したために作られた例と思われるのがこちらの系図です。
これらの系図は肥前国(今の佐賀県・壱岐・対馬を除く長崎県)の高木氏一族である草野氏と上妻氏(両氏は主に筑後国〔今の福岡県南部〕で活動)に伝わる系図で、ご覧の通り草野氏の系図(④)では道隆の子・伊周の子孫としていて、上妻氏の系図(⑤)は道隆の子に「隆宗」という人物を設定、その子孫としています(隆宗は『尊卑分脈』で確認できない人物です)。
これが「隆家子孫説」とは異なる「中関白家 子孫説」である「伊周子孫説」と「隆宗子孫説」です。
これについて、太田亮先生は御著書『姓氏と家系』の中で、
と記しておられます。
「中関白家 子孫説」に対する反論
近代において「隆家子孫説」に対しての反論で代表的なものとなっていたのが、先ほどもお名前を挙げた太田亮先生の『姓氏家系大辞典』(初版 1934年~1936年)の「菊池」の項目での記述と『姓氏と家系』(1941年)の「菊池系図の研究」(第八章第三節)での記述です。
少し長いですが、太田先生の記述(『姓氏と家系』)を引用してみます。
要するに、『尊卑分脈』の中関白家の系図に照らしてみても子孫であることが全く見いだせず、諸家に伝わる中関白家の子孫とする「菊池系図」には異同が多い。従って菊池氏は大宰府の官人(大宰府府官)の末裔だったにも関わらず、代々大宰府の帥(権帥)や大弐の職といった大宰府高官を世襲してきた中関白家(藤原道隆の家系)の子孫を仮冒することによって、系図を偽作してきたとおっしゃっているのです。
そして、太田先生は菊池氏はじめ諸家に伝わる「菊池系図」などを詳細に比較検討され、さらに菊池氏と縁の深い寺の伝承などに基づいて菊池氏の「紀氏起源説」を主張されます。
九州土豪説
太田亮先生が菊池氏の起源について主張されたのは「紀氏起源説」ですが、その土台となるものに「九州土豪説」というものがあります。
そこでまず「九州土豪説」をご紹介したいと思います。
明治22年(1889年)に刊行された『史徴墨宝考証』(※7)にこのような一節があります。
“肥前の高木も菊池と同祖と称している。たいてい諸国の豪族は、在庁官人(国衙の役人)や国司、郡司、公家の雑掌(雑務に奉仕した者)など、領家(開発領主から寄進を受けた庄園領主)の姓を偽称するものである。藤原道隆の子である隆家が大宰権帥となって以来、大宰府はその家(中関白家)の世襲のようになったから、その頃すでに高木や菊池といった豪族がいて、肥前と肥後の肥沃な土地を中関白家の庄園としてその地頭となり、高木は肥前守に、菊池は肥後守に任じられたのであろう。”
さきほどの太田先生の記述がこれを土台とされていることはおわかりいただけるかと思いますが、この『史徴墨宝考証』の記述がこれまでの「中関白家子孫説」を初めて疑うものでした。
そしてここでは菊池氏も高木氏も在地(地方)の豪族で、大宰府高官を世襲しているような中関白家に肥前や肥後の土地を庄園として寄進して仕えたことから、そのうち他国の例にも見られるように領家(この場合は中関白家)の姓である「藤原」を仮冒したとするのです。これが「九州土豪説」です。
太田亮先生も『姓氏家系大辞典』の中でこの説について以下のように解説されておられます。
紀氏起源説(紀氏説)
前の節の「九州土豪説」を踏まえて唱えられたのが「紀氏起源説」です。
簡単に言ってしまえば、菊池氏と肥前の高木氏が同族なら肥前の高木氏は紀氏族なのだから菊池氏も出自は「紀氏」であるというのです。
この「紀氏起源説」を主張される太田亮先生は菊池氏の菩提所であった肥後国菊池郡の円通寺の縁起に、菊池氏の氏祖とされた「則隆」が“鹿嶋大夫将監則隆”と記されていることに着目。この鹿嶋というのは肥前国藤津庄の鹿嶋(今の佐賀県鹿島市)であって、藤津庄の下司(現地で実務を行う庄園管理者)を務めていたのは大村氏でしたが、大村氏も高木氏と同族(紀氏族)と見なせるために「菊池=高木=大村=紀氏族」とされたのです。
さらに、前掲の『続群書類従』所収の「菊池系図」(①)の、則隆の父・政則の譜に“太宰府に居住す。屋敷馬場宮高木にあり”との記述があることから、これは肥前国佐賀郡の高木であって、馬場宮は高木村(今の佐賀市高木瀬町)の北にある「馬責馬場」(※8)と「宮」(※9)の両集落と関係があると推測、菊池氏は高木氏と同族であって、高木氏は大宰府府官(大宰府の役人)にして肥前の在庁官(在庁官人:国衙の役人)でもあったから肥前国府付近の高木村におり、政則もその地方にいたと思われるとし、”高木・菊池の両氏は極めて察接なる関係を有す”(『姓氏家系大辞典』)とされています。
さらに太田亮先生は以下の点を挙げられます。
「菊池武朝申状」で菊池氏祖とされた「則隆」の父である「政則」と高木氏祖である「文時」とは兄弟と伝える系図が多い(※太田先生は「政則」を菊池氏祖としています)。
『続群書類従』所収「菊池系図」(①)の「文時」の譜に“高木・菊池権威あり”とあって高木を先にしていることから、「文時」が兄で高木を継ぎ、政則が分家したと考えられる。
紋章(家紋)も菊池氏はもともと「日足」紋を使用していて、これは高木・大村両氏と同紋である。
そして、これらの点もふまえてこう結論付けられます。
“菊池氏は大宰府官たりし紀氏にして、高木・大村・草野等と族を同じうす”
(『姓氏家系大辞典』)
諸説ある菊池氏の起源
太田亮先生は『姓氏家系大辞典』で菊池氏の起源についての諸説を紹介されておられますので、ここでは今までお話しした説以外のものを一通りご紹介します。
文家説
この説は「中関白家 子孫説」の一種なのですが、菊池氏と同族とされた高木氏もまた中関白家の子孫を称していたことによるもので、高木=菊池=中関白家の子孫とします。
前掲の『続群書類従』所収「菊池系図」(菊池系図①)も『草野系図』(山本村観興寺蔵・菊池系図④)も高木氏が中関白家の子孫となっているのがわかります。
『歴代鎮西要略』所載の高木系図には、
”その先祖は大織冠(中臣鎌足)より10代の正統な子孫である中関白道隆公より出た。公(道隆)の子を文家という(「文」の字を一つの系図は「隆」の字にする)。中納言大宰帥となって三人の子を生んだ。真ん中の子を文時という。延久の帝(後三条天皇)の時に中納言大宰帥となる。その子右近衛中将文貞、さらにその子は大宰大弐秀貞、都督(大宰帥の唐名)の職になること再三である。秀貞の嫡子を筑前守貞永という。これは高木、草野等といった氏の祖である。”
とあって、太田先生によれば、
”『草野系図』にも文家(権大納言、初名経輔、遠州波津久良〔初倉〕庄流罪)━ 文時 ━ 文貞とありて、文時、政則の父を文家とする也”
とあるそうです。下の系図は『菊池風土記』(※10)所載の「菊池系図」になりますが、「政則」・「文時」の父親が藤原経輔(文家?)になっていて、これも「草野系図」などの系図を参考にしたであろうと考えられるものとなります。
この説について太田亮先生は、
と述べて、「政則」(菊池氏祖)と「文時」(高木氏祖)の父親は「文家」という人物であったことは認めつつ、それならますます中関白家と「文家」とは切り離して考えるべきとされています。
久々智姓説
『和名抄』(※11)に菊池が「久々知(智)」と註されていることから、『姓氏録』(※12)の「摂津皇別」にある「久々智、同上(阿倍朝臣同祖)」と関係があるのではないかとする説です。
これについて、太田亮先生は大宰府府官であった紀氏の族人が肥後国司となって肥後に移り、この久々智の家を継いだのではないかと仮定されるも不明とされています。
あと考えられるのは、古代に菊池郡の郡司を務めていた氏族の家系だったとも思われ、菊池則隆らが菊池郡に勢力を拡げるうえで、婚姻関係などによってその連携先となった可能性があるかもしれません。
源姓説
『応永戦覧』(※13)という書物に、
”武基、(天慶年間に源経基が鎮西(九州)に下向した際、大宰府にいてそこの侍女と縁組をした。やがて侍女は子を身籠って故郷の菊池へ帰り、天慶4年(941年)4月に男子を産んだ。源家の正統な血筋ということで源丸と名付けられた。その母親(侍女)の父母(祖父母)は源丸を労わって育てた。天暦8年(954年)9月に祖父は源丸を伴って上洛し、源経基の子とした。こうして人々に知れることになった。時に19歳のことであった〔計算合いません・・・〕。やがて天皇の耳にも達し、宮中へ参内して元服し、肥後守に任じられ、正四位上に叙せられた。そして菊池郡を賜り、肥後介武基と称した。これが菊池の氏祖である。)”
というのがあり、清和源氏の祖である源経基の子である「武基」という人物が菊池氏祖と言っているわけですが、内容からして無茶苦茶であり得ない話だとすぐにわかります。
これには太田亮先生も、
と酷評されていますし、平泉澄先生も、
と一蹴されております。
おわりに
今回は菊池氏の起源についての前編と言うことでお話しさせていただきました。特に後半の太田亮先生の御見解はこれまで主流(定説)だった「中関白家 子孫説」に対して真っ向から異を唱えるものでしたが、その定説を覆すまでには至りませんでした。
それというのも、太田先生もまた系図を緻密に比較検討された上で御見解を示されましたが、結局はどの系図、あるいは系図のどの部分を採用するかの違いであり、それらの信憑性を系図以外の他史料でもって裏付けることが不十分であったと思われるからです。
志方正和先生は論文「菊池氏の起源について」の中でこう述べられています。
ということで、今回はここまでです。
次回は菊池氏の起源をめぐる研究のなかで画期となった志方正和先生の説をご紹介したいと思います。
志方先生はある史料から思いがけず菊池氏祖とされた「則隆」、その子である「政隆」と考えられる人物を発見、さらには「則隆」の父である「政則」と思われる人物を見出します。そしてそれを従来の系図とも照合して考察されたのです。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
⇒次回