【甲斐源氏 vol.4】 甲斐国を代表する勢力へ
八代庄停廃事件
源義清と清光は、甲府盆地北西部へ進出して、馬の産地を勢力下に置き、着々と力を蓄えていきましたが、まだ甲斐国には古代豪族の流れを汲む三枝氏などが割拠していて、甲斐国を代表する勢力とはいえない状況でした。
ところが、その状況を一変させる事件が起こります。
それは応保2年(1162年)に起こった、いわゆる「八代庄停廃事件」です。
この事件に直接甲斐源氏は関わっていないため詳しくはまた別にお話ししたいと思いますが、事件の内容をできるだけ簡単にお話ししますと・・・。
当時、甲斐国守だった藤原忠重は遥任国司(現地に赴かない国司)だったために中原清弘という者を目代として派遣、その国務に当らせておりました。
そして当時甲斐国衙(甲斐国の行政を担う政庁)で幅を利かせて実務を行っていたのが、三枝守政という者でした。
応保2年(1162年)10月6日。
国衙にほど近い八代庄に清弘と守政が軍勢を率いて突如侵入。
八代庄を停廃(廃止)して、庄園の境界を示す標識(四至の牓示)を抜き取って、年貢を奪い、庄園にいる者の口を八つ裂きにするなどして乱暴狼藉を働いたのです。
この頃よく見られた国衙と庄園との争いが招いた事態でした。
この乱暴狼藉に八代庄の本所(実質的な庄園の支配権を持った所)である紀伊国(今の和歌山県と三重県南西部)の熊野神社は怒って朝廷に訴え出ました。
熊野神社は、この八代庄が久安年間(1145年~1151年)に、当時の甲斐国司であった藤原顕時によって、熊野社で毎年11月に行われる法要の費用に充てるために寄進された庄園であり、鳥羽院庁からもそれを認めた下文が出されているれっきとした熊野の社領だと主張したのです。
この争いに朝廷は、検非違使庁(治安維持を司る役所、今の警察みたいなもの)を通じて、甲斐守・藤原忠重、その目代・中原清弘、在庁官人(国衙の役人)・三枝守政らに事情聴取し、朝廷内で様々議論がなされた結果、忠重らは有罪という判断を下しました。
これは国衙側が庄園側に敗訴したことを意味し、国衙の政治権力は大きく失墜するという結果をもたらしました。そして、これまで在庁官人として国衙で権力を振るい、この事件に加担した三枝氏もその権威を大きく失墜させ、没落の道をたどることになったのです。
甲斐国内で多くの利権を握ってきた三枝氏の没落は、甲斐源氏にとって、それにとって代わる好機となったことは言うまでもありません。この好機を見逃さず、甲斐源氏はこれまで勢力を広げることができなかった甲斐国中心部へと一気に進出したのです。
甲斐国内に割拠する甲斐源氏の諸氏
こちらは甲斐源氏の略系図です。
ご覧いただければわかるように清光は大変な子だくさんで、これらの子たちを甲府盆地の各地に配置して勢力を拡げたのです。その分布図が下の地図になります。
これは治承・寿永の乱(源平争乱)が始まる直前の甲斐源氏諸勢力の割拠図です。
もうこの頃になると、清光の子をはじめ、清光にとって孫になる世代もそれぞれ拠点を持っていて、かつては三枝氏の勢力圏であった甲斐国府周辺にも勢力を拡げて、甲府盆地の各地に散らばっているのがわかります。
源義清が甲斐国へ流されてきて以来50年足らずで、甲斐源氏は甲斐国を代表する勢力に成長を遂げたのです。
ちなみに、甲斐国は地域を主に3つに分けることができ、まず甲斐国を東西に2分するような山地(大菩薩連嶺と御坂山地の稜線)を境に、西側を国中地方、東側を郡内地方と呼んで分け、さらに国中地方の南側・富士川の河谷となっている地域を河内地方と呼んで分けることがあります。
この3つの地域のうち、甲斐源氏は国中と河内の2つの地域に勢力を拡げました。一方、郡内地方は古代より東の隣国・相模国や武蔵国との結びつきが強く、そちらは武蔵国を中心に勢力を拡げていた秩父党の流れを汲む小山田氏などの勢力が割拠していました。
甲斐源氏と都との結びつき
甲斐源氏が甲斐国を代表する勢力になった背景としてもう一つ注目されるのが、都の有力権門(※1)との結びつきです。
甲斐源氏と都との結びつきに関しては詳細が明らかにされているわけではありませんが、『尊卑分脉』(※2)などを見てみると何人か在京していたことがうかがえる者がいます。
例えば、奈古義行には「八条院蔵人」、逸見光長の子である基義・義俊には「皇嘉門院判官代」といった肩書がついています。まず八条院は鳥羽院(鳥羽法皇)と美福門院との間に生まれた皇女で、両親それぞれから受け継いだ各地に多く広がる庄園(八条院領といいます)を一身に相続して、その強い経済的基盤やそれに伴う多くの人脈を持っていました。そしてそれらを背景として中央政界に一定の影響力を持つ女院として平家からも一目置かれる存在でした。そして、皇嘉門院は摂政・関白などを務めた藤原忠通の娘で、崇徳院(崇徳上皇)の皇后となった人です。
このように、甲斐源氏の諸氏の中には都の有力者の側に仕えた人もいたのです。
他に例を挙げると、『吾妻鏡』に加賀美遠光(清光の三男もしくは四男)の子である秋山光朝・小笠原長清が平清盛の子である知盛に仕えていたとありますし(治承4年〔1180年〕10月19日条)、武田信義(清光の二男)の子である有義も左兵衛尉という官職を得て、清盛の嫡男・重盛(1138年~1179年)の御剣役を務めていたことがあるようです(文治4年〔1188年〕3月15日条)
あと、加賀美遠光は高倉天皇の時に上洛して、宮廷警護の功績で下賜されたのが大聖寺(山梨県南巨摩郡身延町八日市場〔旧・中富町〕)の不動明王像だったという伝承も残るそうです(『山梨県史』より)。
このように、甲斐源氏は甲斐国内で独自に勢力を拡げていたわけではなく、都の有力権門との結びつきを利用して勢力を拡げていったことがうかがえます。
甲斐源氏と治承・寿永の乱、そしてその後
さて、こうして甲斐源氏は大勢力となって、治承・寿永の乱に突入しました。ここからの話は治承・寿永の乱のシリーズでお話ししたいと思いますが、治承・寿永の乱によって甲斐源氏はまた新たな展開を見せていくことになります。
ただし、甲斐源氏にとって治承・寿永の乱はあまり良い結果をもたらしませんでした。当初は対等に近い同盟関係であったはずの源頼朝によって、戦乱が進行していくにつれて従属化が図られたのです。
頼朝によって粛清される者、勢力規模を縮小される者、はたまた重用されて勢力を拡げる者など様々でしたが、結果的に見れば、全体的な甲斐源氏の勢力は弱まり、日本史上初となる本格的な武家政権の誕生によって甲斐源氏の諸氏は日本各地に散らばっていったため、諸氏の同族意識はますます薄まりました。
例えば小笠原氏は信濃国(長野県)へ、武田氏は安芸国(広島県の西半分)へ、南部氏は奥州(東北地方)へその拠点を移していくことになって、それぞれの氏でそれぞれの歴史を歩んでいくことになるのです。