【治承~文治の内乱 vol.33】 北条時政の足取り
はじめに
前回、信濃国(今の長野県)へ出兵した甲斐源氏が甲斐国(今の山梨県)へ戻ってきたところで、頼朝の義父である北条時政が訪れ、頼朝の命令を伝えたというところまでお話ししましたが、どうも『吾妻鏡』の語るところの時政は怪しさ満点でして、腑に落ちない点がいくつかあります。
そこで今回は石橋山の戦いから甲斐源氏のもとへ訪れるまでの北条時政の足取りを『吾妻鏡』に基づいて追ってみたいと思います。
死地を彷徨う北条父子
最初にこの地図を貼っておきます(参考にどうぞ)。
地図上の番号はこれからお話しする北条時政・義時の辿ったルートの順番です。
①
治承4年(1180年)8月24日。石橋山の戦場から離脱した北条時政と義時父子は戦いに疲れて、箱根の山々を超えることができなかったため、頼朝についていくことができませんでした。やがて味方の加藤景員・その息子たちの光員・景廉、宇佐美祐茂、堀親家、宇佐美実政らと合流。彼らは時政の供をしたいと言ってきますが、時政は彼らに早く頼朝を捜して合流するようにと言って断りました。その後、時政と義時は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしました。
②
8月24日晩。北条時政と義時は椙山にいる頼朝のもとにたどり着きました。
➂
その後、箱根権現の僧・永実の案内で、頼朝とともに箱根権現へ向かいました。(これはこちら(vol.21)でもお話しさせていただきました^^)
④
8月25日。時政は今回の合戦の次第と現状を甲斐源氏に伝えるために頼朝と別れ、箱根権現の僧・南光房の案内で山伏(修験者)の通る道を使って甲斐国へと向かいました。ところが、途中で頼朝がどこへ到着するのか見定めてから甲斐へ向かおうと思い直し、頼朝のあとを追って土肥郷方面へと行き、案内者の南光房は箱根権現へと帰っていきました。
⑤
8月27日。時政・義時父子は岡崎義実、近藤国平らとともに土肥郷の岩浦から安房国(今の千葉県、房総半島南部)に向けて船出しました。
以上が石橋山の戦いからの北条時政・義時の足取りとなるんですが、もうすでにいくつかおかしなことが書かれていると感じます。
まず①の湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしたのに、なぜかその夜、甲斐国の方角ではない椙山へ向かい、頼朝と再会している点。
もしこの地が平野だったら湯坂から椙山までなんとか行ける距離だと思いますが、よりによってここは高低差が激しい箱根の山中。ただでさえ、戦い疲れて山々を越えることができなかったと記述しているのに、この移動はどういうことなのでしょうか・・・?
そして次に、④の時政は頼朝と合流したのにもかかわらず、別れて甲斐国へ向かい、甲斐源氏に事情を説明しに行くことになっていますが、もしこれが事実なら当然時政は頼朝と打合せた上での行動だと思うんですが、頼朝の行く末を見定めるために戻るというのは一体どういうことなのでしょう・・・?
時政が途中で頼朝のことを「やっぱ心配!」となってしまったというふうにも受け取れますが、どうにも不可解です。
要するに、石橋山の戦い後の北条時政・義時は、甲斐へ行こうとしたけど結局頼朝と合流、そして再び甲斐へ行くことになったものの、やはり頼朝のあとを追っているという険しいはずの箱根山中をジグザグ彷徨っているのです。しかも、当時の箱根山中は大庭景親や伊東祐親らの軍勢による執拗な落ち武者狩りが行われており、北条父子にとっては死地だったにもかかわらずです。
北条時政の奇妙な行動
『吾妻鏡』はこのあとも奇妙な時政の行動を記し続けます。
8月29日。頼朝が安房国猟嶋に到着すると、先に到着していた時政や三浦の者たちの出迎えをうけます。そしてその翌日、時政らは上総国の上総広常のもとへ向かうように頼朝に進言しました。
9月8日。時政が甲斐国へ使者として赴きました。これは甲斐源氏とともに信濃国へ出陣し、味方するものは従わせ、敵対するものは討つようにとの厳命を受けてのことでした。
9月15日。時政は甲斐源氏の宿す逸見山に到着。頼朝の厳命を伝えます。
つまり、時政は安房国へ渡ってから甲斐国へと向かったのですが、時政が出発したと記される8日の段階では、まだ房総の有力武士である千葉常胤や上総広常の去就がつかめていないばかりか、甲斐国への途中にある武蔵国の武士の大半はまだ頼朝に敵対している状況ですから、わざわざ危険度が高い道中を遠回りして、頼朝のもとを離れているというのが、どうもよくわかりません。
やはり時政は箱根から甲斐へ向かった?
『延慶本平家物語』の「石橋山合戦の事」には、このような一節があります。
(戦場を離脱した)頼朝は山の峯に上って、倒木の上に腰をかけていると、味方の武士たちがちらほらと集まりだしたため、
「大庭(景親)、曾我(祐信)などは箱根の山をよく知っている者だから、きっとこの山を歩き回っていることだろう。人が多くてはすこぶる都合が悪い。各々は今から散り散りになって逃げよ。私がもし生き残ることができたなら必ず戻ってきなさい。私もまたそなたたちを訪ねよう」
とおっしゃられたが、(一同は)
「われらすでに日本国を敵に回し、どこへ行ったとしても遁れることはできないと思います。(それならば、頼朝様と)ご一緒し、同じところで塵や灰にもなりたく存じます」
と言うので、(頼朝は)
「頼朝、思案するところがあるからこのように言うのに、なお強いて落ち延びようとしないのは怪しい。各々なにか企みでもあるのか」
と重ねておっしゃったので、
「この上は」
とそれぞれ思い思いの場所へ落ち延びていった。北条四郎時政、同じく子息義時父子二人は、そこから山伝いに甲斐国へと向かっていったという。
『延慶本』はもちろん“物語”ですので、これがまったくの事実だとは思いませんが、『吾妻鏡』の記述の不可解な点を解消するならば、石橋山の敗戦で味方散り散りになる中、時政は息子・義時と二人でなんとか箱根山中を抜け、すでに決起していた甲斐源氏のもとへ落ち延びるべく、ひたすら甲斐国を目指したと考えた方がすんなりいきます(頼朝と再会すらしていないかもしれません)。
ただ、これだと石橋山敗戦後から頼朝が再起するまでの、言うならば鎌倉政権にとってとても重要な時期に、主たる鎌倉北条氏が頼朝のそばにいなかったことになってしまい、体裁が悪くなってしまいます。
そこで『吾妻鏡』は頼朝が安房国へ落ち延びた時点までは従っていたことにし、頼朝の命令で甲斐国へ向かったことにすれば、鎌倉北条氏の体裁は保てると曲筆をほどこした可能性が考えられるのです。
頼朝勢と甲斐源氏の共闘
『吾妻鏡』の治承(1180年)4年9月20日条にこんな記事があります。
土屋宗遠が頼朝の使いとして甲斐国へ向かった。(われらの方は)安房・上総・下総の3ヶ国の軍勢がことごとく参上した。さらに上野・下野・武蔵などの国々の軍勢も引き連れて駿河国にて、平家の軍勢を待ち受けるから、早く北条殿(時政)の案内で黄瀬川の辺に来るようにと、武田信義をはじめとする甲斐源氏などに伝えたという。
また、『延慶本平家物語』の「土屋三郎と小二郎行き合ふ事」には、
北条時政が甲斐へ赴き、一条・武田・小笠原・安田・板垣・曾祢・那古といった甲斐源氏の人々に(石橋山の戦いの様子や関東の情勢を)伝えているのを、頼朝はお知りにならなかったので、様子を伝えようと土屋宗遠を自筆の文とともに甲斐へ遣わしたという。
という一文があります。
この『延慶本』の方は頼朝が安房国へと船出するかしないかの頃のこととして記しているので、『吾妻鏡』と時期が一致しなく、ニュアンスも違いますが(しかも『吾妻鏡』は甲斐源氏に対して上から目線)、おそらくこの土屋宗遠の甲斐国派遣をもって、頼朝側から甲斐源氏側への共闘呼びかけが行われたものと思われます。
これはまた次回もう少し詳しくお話ししようと思いますが、『吾妻鏡』の言う9月20日頃は平家主導による東国追討使が福原を出発しようとしている頃で、すでに9月5日付で頼朝追討の宣旨(天皇の命令書)が出されている状況でしたので、頼朝のもとにも京都の三善康信あたりから、追討使襲来の知らせが届いていたものと思われます。
宣旨が出されているということはれっきとした官軍で、しかも平家主導の軍勢ですので、その軍勢規模は相当なものと考えた方がよく、頼朝としては、少しでも共に戦う味方を増やそうと甲斐源氏に呼びかけたのでしょう。
そして、土屋宗遠は9月24日(『吾妻鏡』)、石和御厨(今の山梨県笛吹市石和町の笛吹川右岸地域)に宿営している甲斐源氏のもとに到着、頼朝の仰せを伝えました。
甲斐源氏は武田信義、一条忠頼(信義の子)をはじめとする者たちがこぞって集まって対応を評議し、駿河国に出陣することを決めました。
こうして、甲斐源氏と頼朝との共闘が実現し、着々と東国追討使(平家本軍)を迎え撃つ準備を整えていったのでした。