【治承~文治の内乱 vol.45】推して鎌倉の主となす
和田義盛が侍所の別当に就任
治承4年(1180年)11月17日(以降の日付はすべて『吾妻鏡』に拠ります)。
この日、鎌倉に帰還した頼朝は和田義盛を侍所の別当(長官)に任命しました。
これは去る8月、石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房国に上陸して難を逃れた際に、和田義盛が侍所の別当に就きたいと希望を言っていたのですが(『平家物語』『吾妻鏡』)、それがようやく実現したものという形になっています(vol.24)。
頼朝にしても義盛のこれまでの働きを考慮して認めたんでしょうね。
ところで、この侍所。
のちに政所(当初は公文所)、問注所と並んで鎌倉政権の三大機関の一つとされるようになるんですが、「侍所」自体は何も新しいものではありません。
都の摂関家や有力貴族のもとにも家政機関として侍所があり、「侍所」はもともと貴人の身辺警護やその屋敷の警備を宿直で勤める者(侍)の詰所を指しました。
初期の鎌倉政権下では元々の役目である頼朝(貴人)の身辺警護や屋敷の警備を担当するとともに、その警備を担当するのが御家人ですので、その御家人を統制する役所として機能していき、それがじきに政権の軍事警察担当部署として、戦時では軍奉行となって御家人を統括する役割を果たし、平時においては違法(非違)の取り締まり、刑事事件を起こした犯人の検挙やその事件の審理、刑事裁判(これらを総称して検断と言います)を担っていくようになりました。そして、それに応じて別当の権限も拡充し、政権内の地位を向上させていくことになります。
推して鎌倉の主となす
治承4年(1180年)12月12日。10月9日から大庭景義が奉行(≒担当)となって造営してきた頼朝の邸宅(大倉御所)が完成し、引っ越しの儀式(移徙の儀、※1)が執り行われました。
上総広常の鎌倉の邸宅(今の鎌倉市十二所付近?)から出発した頼朝は水干姿で石和栗毛(※2)に騎乗して新造の邸宅(御所)へ向かいましたが、その行列は錚々たる御家人が隊列を組んで進むという壮麗なものでした。
まず和田義盛が最前にあって行列を先導し、加賀美(加々美)長清が頼朝の左側に、毛呂季光が右側にあって、北条時政・義時、足利義兼、山名義範、千葉常胤・胤正(常胤嫡男)・胤頼(常胤六男)親子、藤九郎盛長(安達盛長)、土肥実平、岡崎義実、工藤景光、宇佐美助茂、土屋宗遠、佐々木定綱・盛綱兄弟らが続き、最後尾は畠山重忠でした。
(あいかわらず名前多くてすみません…でも、ここに挙げた方々みな鎌倉の主要御家人です…)
大倉の邸宅(御所)に到着すると、頼朝は寝殿(寝殿造りの母屋)へ入り、その他の御家人は邸宅敷地内に設けられた18間(※3)の大きさを誇る侍所へと向かいました。
そして、御家人はその侍所にて二列に向かい合って着座し、上座中央には別当となった和田義盛が着座しました。
『吾妻鏡』はこの日出仕した御家人を311人とし、一同、頼朝の有道(正しい道にかなっていること)を見て、つまり、天下を治めるべき徳のある人として「鎌倉の主」に推戴したと記していることから、ここに頼朝の敬称「鎌倉殿」の原点を見出だせ、鎌倉に一つの組織(地方軍事政権)ができあがったことを示しています。
ちなみに、これら一連のできごとに評価を与える先生方がおられ、例えば・・・
と述べておられます。
鎌倉政権の成立時期をめぐって
この鎌倉政権成立の時期をめぐっての問題は諸先生方で様々に意見が別れ、上横手雅敬先生が『国史大辞典』の「鎌倉幕府」の項で、“幕府の成立時期について諸説が分かれるのは、幕府の本質の捉え方の差違に基づく”と述べておられるように、鎌倉政権とは何なのかという疑問とともに、日本中世の国家体制の捉え方(主に「権門体制論」と「二つの王権論(東国国家論の派生)」との論争)やそもそも「国家」とはなんだという疑問までもが絡んではっきりとした答えは出ていません。
今現在言われている鎌倉政権の成立年は主にこちらです。
①1180年 頼朝が鎌倉の主に推戴される
②1182年 朝廷が頼朝に東国の支配権を認めた寿永二年十月宣旨が出される
③1184年 鎌倉に公文所・問注所が設置される
④1185年 頼朝に諸国へ守護・地頭を設置することを認めるいわゆる「文治の勅許」が出される
⑤1190年 頼朝の日本国総追捕使・総地頭としての地位を確認、朝廷から公認される
⑥1192年 頼朝が征夷大将軍に就任
この中で通説となっているのは④の1185年ですが、近年では①や⑤も注目されています。
⑤を重視するのは「権門体制論」で、これは鎌倉殿を中心とする組織は天皇を中心とした国家体制の中の軍事・警察部門を担当する「軍事権門」に過ぎないものとし、単独の政権としては成立していないものと捉える考え方です。一方、①を重視する「二つの王権論(東国国家論)」は鎌倉が東国に成立した単独の政権であり、朝廷と並び立つ存在であったとするものです。
まぁ、この辺の話はちと難しいというか、ややこしいので今回はさらっと流させていただきますが、秋山哲雄先生に至っては、こうした「権門体制論」か「東国国家論」かの二者択一的な議論は古めかしいものになりつつあるようだとされ、どちらか一方を選ばなければならないという性質のものではないとして、“鎌倉幕府が、朝廷に対しては「軍事権門」として振る舞いながら、東国に対しては「東国国家」として存在するという二つの側面があったと考えるべきであろう”とされています(※4)。
鎌倉の整備
『吾妻鏡』の治承4年12月12日条、つまり頼朝が新造の大倉御所に移ったとする記事には、
”鎌倉はもともと辺鄙な場所で、漁師や年寄りの他に住居を定めようとする者は少なかった。まさに今この時にあたって、ちまたの道を直し、村里に名前をつけた。それに加え、家屋が建ち並び、門扉が軒をめぐらすようになったという。”
とあります。
この記述により、この時点から有力御家人たちの邸宅、宿館の建設(※5)や従来からの道の整備、点在していた村里には名前がつけられるなど、鎌倉はかつての寂れた漁村から急速に頼朝方勢力の拠点としての体裁が整えられ、東国武士たちの共通、共有の都市へと変化していったと捉えることができますが、近年そうではなかった指摘がなされています。
この地図は奥富敬之先生の『鎌倉史跡事典』(※6)や鎌倉の伝承、湿地帯は鎌倉市が作成した滑川水系の洪水ハザードマップなどを参考に当時の鎌倉を示したものです。
まだこの頃は鎌倉のメインストリートと目される若宮大路はなく、そのあたりは湿地が広がっていたと考えられています。そのため、鎌倉の北西方向から北上して武蔵国に至る道(武蔵大路または今小路)や三浦方面へ抜ける道(三浦道)、六浦へ抜ける道(六浦道、のちの金沢街道)、鎌倉を東西に貫く道(古東海道)といった道の沿線に御家人たちの邸宅や宿館が建てられたと思われます。
とりわけ、六浦道の沿線には大倉御所をはじめ、多くの寺社(頼朝の鎌倉入り前からあった)や御家人の邸宅・宿館が集中しているのがわかります。
六浦道はその名の通り、下総国・上総国方面へ渡海する重要地点であった六浦(現在の横浜市金沢区)へと通じており、古代の東海道と六浦道をつなぐ道(今小路≒武蔵大路)の途中には鎌倉郡の郡衙(郡の役所)も古代にはあったことから、鎌倉が古代より交通が盛んな要衝の地であったことは想像に難くなく、頼朝が鎌倉入りしたばかりの頃は六浦道が鎌倉のメインストリートだったと思われます。
ただ、そうなると頼朝が入部する以前の鎌倉の様子は『吾妻鏡』のいう“所は素辺鄙にして、海人野叟の外、卜居の類ひこれ少なし”という記述の信憑性に懐疑的な見方もできるようになります。
そこで野口実先生は“頼朝入部の意義を強調するあまりに、入部以前の鎌倉をことさら小さく評価したように受け取られる”と、この『吾妻鏡』の記述に対する感想を述べられています。
さらに、野口実先生は入間田宣夫先生の奥州平泉の様子についての指摘(※7)を受けて、義朝の館(鎌倉の楯)周辺に東国の源氏家人たちの中に鎌倉に宿館を構える者が現れても不思議ではないと、頼朝が鎌倉入りする前からかつての義朝の家人たちの宿館がまだ残っていた可能性が高いことを指摘されています。(※8)
鎌倉が選ばれた理由
野口先生は頼朝がその拠点に鎌倉を選んだ理由について、鎌倉が拠点たるべき用意が頼朝の父・義朝によってすでになされていたからと指摘されます。
鎌倉はかつて「坂東の平和」を現出させた義朝の拠点であり、義朝の居館であった「鎌倉楯(館)」を中心に、宗教施設が整えられ、鎌倉を東西に走る六浦路を軸線にして都市としての形態がすでに整いつつあって、そこには義朝に従属した坂東武士の宿所が設営されていたことも想定される、これらのことは考古学的に概ね裏付けられていると述べられています。
従来『吾妻鏡』の記述(※9)に拠って、鎌倉は頼朝が入部して以来、坂東武士たちの拠点、俗にいわれる“武士の都”として体裁が整えられたという見方がなされていましたが、それに見直しを迫るご指摘です。
また、義朝によって用意されていた鎌倉が選ばれたことは頼朝を支持した武士たちにとってそうでなければならなかったとも野口先生は述べておられます。つまり、彼らが志向していたのは「坂東の平和」の再現で、その拠点はやはり「源氏の御曩跡(ゆかりの地)」でもある鎌倉にこそというわけです。
坂東の武士たちが「坂東の平和」を待ち望んでいたことは、千葉常胤の
という言葉。さらに、これは『延慶本平家物語』に記されているものですが、三浦義明も頼朝が挙兵することを聞き及んで、
といったセリフに大変よく表れていると言えるのではないでしょうか。
鎌倉にある御家人の館(宿館)について
頼朝が大倉御所に移る儀式で最初の御座所として上総広常の館が使われたことは先ほどお話ししましたが、この上総広常の館は大倉御所のように新造されたものではなく、以前からあった可能性もあります。
現在上総広常の館があったと伝わる場所は、鎌倉の東端、朝夷奈切通の出入り口付近(鎌倉市十二所)と比定されていますが、大倉御所からはだいぶ離れており、新たにこの場所に宿館を建造するのは少し違和感があります。
朝夷奈切通は鎌倉から六浦を結ぶ六浦道が通るため、ここに宿館を設ければ本拠である上総国への行き来がしやすい立地であり、上総氏があえてこの場所に設けたことも考えられますが、野口先生もこの広常の館も新造したものであろうかと疑問を呈しておられます。
ちなみに、他に治承4年12月の時点で確認できる御家人の館(宿館)としては藤九郎盛長(安達盛長)の甘縄亭があります。『吾妻鏡』治承4年12月20日条には頼朝が大倉御所から初めて出かける儀式(御行始の儀、※10)があって、この盛長の甘縄亭に向かったことが記されています。
しかし、この盛長の甘縄亭は場所が定かではありません。従来だと「甘縄」という名前や吾妻鏡の記述に照らして、今の甘縄神明神社の近所にあった(地図で示すところの安達(A))とされていましたが、最近では今の鎌倉歴史文化交流館付近(無量寺ヶ谷)にあったとする説(地図で示すところの安達(B))やその無量寺ヶ谷をやや南下したところにあったとする説などがあります。
ただ、鎌倉の政権中枢に関わるような有力御家人の邸宅や宿館は鎌倉中にいくつかあったことや時代が下って代がかわるなどして引っ越しをしていた事例もうかがえるため、安達氏という大身の御家人ならば、これらの場所それぞれに邸宅を構えていたか、AからB(またはその逆)へ引っ越しをした可能性が考えられるので、どちらかの邸宅に盛長以来代々居住していたとは限りません。
あと、北条時政の邸宅に関しても「名越亭」として釈迦堂切通上にあったとされていましたが、その場所は発掘調査で13世紀半ば頃(鎌倉中期)の遺跡が確認できるものの、時政がいた時期の遺構は発見できなかったため、近頃では否定的な見解(※11)が出されていて、結局どこにあったのか謎のままです。