【読書】老人と海 ヘミングウェイ
あらゆるものが、それぞれに、自分以外のあらゆるものを殺して生きてるじゃないか。魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。
『老人と海』そしてヘミングウェイ。あまりにも有名なこの作品を見つけたのはブックオフの110円文庫本の棚だった。不勉強なぼくは、『老人と海』を知らないばかりか、あまりにも平凡なタイトルを面白がって買い、衝撃を受けることになる。一口に言えば「生と死」。それが人間と人間の間だけではなく、海・あるいは海に住む生き物・おなじく海と生き・海に生かされる人間を同じ土台の上で扱っている作品でもある。AI・人間・動物・植物。そうした線引きがなかったころの話は、現代をいきるぼくにとってDNAのみが記憶している事柄である。そこになにがしかの気付きを求めながら、感想と考察を記して行きたい。
あらすじ
老漁師サンチャゴは、一匹も釣れない日が84日も続いていた。40日目まで、少年マノーリンが共に漁に出ていたが、老人の不漁により、親によって
老人の船から降ろされてしまう。それでも老人は漁へ出るのをやめなかった。もう駄目になったと噂された老人は、確かな技術と魂をもった熟練の漁師だったのだ。
生活のさまざまな世話を少年が手伝わなければならないほど老人は老いていたが、少年は漁師として、また人間として老人を尊敬していた。
85日目、老人は網に強い引きを感じる。あまりにも深いところで餌に食いついた「それ」はとんでもない力で老人と小舟を沖へ連れてゆく。
三日目にしてようやく姿をみせた「マカジキ」は老人の船より、一回りも大きい巨体を持っていた。さらに数日間かけて、ついにマカジキをとらえることができる。
しかし、そこは陸から遠く離れた海の真ん中だった。当然船より大きい獲物を船に載せるわけにもいかなず、横に縛り付ける老人だったが、血の匂いを嗅ぎつけた鮫がその後を追っていた。
次々と襲い掛かる鮫たちに船のあらゆる道具を使って応戦する老人だったが、陸につくと、船よりも大きいマカジキは骨だけになっていた。
全てが生まれ、帰る場所
海はやさしくて、とてもきれいだ。だが、残酷にだってなれる、そうだ、急にそうなるんだ。ー老人はいつも海を女性と考えていた。それは大きな恵みみを、ときには与え、ときにはおあずけにするなにものかだ。
女性がいなければ、人間の子供は生まれることはできない。中国では、人工的に子供を作ることに成功し、それ以外にも人工受精などの手段によって人間を作ることは可能かもしれない。しかし、女性の存在なしには、どちらも不可能に変わりない。そして、生物はすべて海から誕生した。
老人の視線で語られる海は、まるで意思をもった「生き物」のように、思える。事実、心臓や脈があるなんてことはないのだが、それでも海は「生き物」としか思えない。有無を言わせない何かが海にはある・・。老人が抱く海への畏怖と、敬意は本来なら誰でもあろうと持つべき感情なのかもしれない。ぼくたち人間は、あるいは、自然から乖離して生きるようになった人々は、スーパーや飲食店に並ぶ、生を終えた死体としてのみ、これらと関わっているのだと思い知らされる。ぼくらだって、心臓が止まれば、地球という大きな生き物のもとへと帰ってゆくだけなのに・・。
値打ち
その人間たちにあいつを食らう値打ちがあるだろうか?あるものか。もちろん、そんな値打ちはありゃしない。あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、一人だっているものか。ー海をたより暮らし、おれたちのほんとの兄弟だけを殺していれば、それでもうじゅうぶんだ。
老人は海にいきる魚や、鳥を「兄弟」として見ている。おなじ海に住まう家族。その血肉を分け合っていきていること。海で命を燃やす彼らに敬意を表していた。老人の前にあるのは、海に住まう生き物が(もちろん老人自身も)終わりなき食物連鎖に生きている事実だけである。
海と海の生き物と同化した老人によって語られる話の節々から、それが伝わってくる。住宅街から、電車を利用して、ドアトゥドアで都内へと通うぼくにとって、老人の語りは、なにか警鐘を鳴らしているように感じる。それが、なんなのかははっきりとわからない。
『老人と海』には世俗的なもの(人間関係・経済力・人間の幸福・身分や立場)は、優先順位のなかで、最も低いどころか、まるで触れてもいないかのように思える。「それは本当に大事なものなのか」ぼくが普段考えているようなことは、とるにたらない些事かもしれないと、考えさせられる。
生かすこと・殺すこと
あらゆるものが、それぞれに、自分以外のあらゆるものを殺して生きてるじゃないか。魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。
「生かしもし、殺しもする」さまざまな芸術や詩、人間が取り扱ってきたテーマを、これほど実感できる作品もないだろうと感じる。単純(シンプル)に言葉を言葉通り受け取ると、「生きるためには、なにかの死が必要だ。自分に運命づけられた死もまた、他の生きるものにとっては必要なのだ」ということではないだろうか。老人が生きるために行う漁。老人が生きるために食らう魚。海の生き物にとっては老人(人間)も、ただに食物連鎖の一部なのであって、人間の立場も魚とさして変わらないのだろうと感じる。
ひょっとしたら人間はこの食物連鎖から、離脱してしまったのではないかと思う。寿命をある程度コントロールできるようになり、人間にとって脅威となる生物・環境から一線を画している。それでも、決定的な死からは逃げることができない。やがて、それすら可能になってしまうだろうか。
まとめ
数回読み返すごとに、『老人と海』という一見平凡に思えるこのタイトルが、これしかないと思える程にしっくりとしてくる。所有しているわけでもなければ、対比しているわけでもない。あくまで平等な立ち位置として、両者それぞれが内包しているといった意味合いにおいて、完璧なタイトルだと思った。
何度読んでも、新たな気付きがある。それが『老人と海』の一番の魅力かもしれない。海があり、海の生き物がいて(数えるのが馬鹿らしくなるくらいの種類・個体)、老人がいる。それぞれがそれぞれの生を全うしているだけなのに、そこには無限の因果関係があって、かと思うとただただ「生きている」それだけだと言われているようにも思える。
おそらく「一は全・全は一」という格言は、このことを示しているのだろうなぁと想像できる。難しく考えれば、考えは尽きないのだが、老人の生きざまは至って単純である。その単純さに、なにか尊いものを感じるのだが、はっきりとした答えはでない。これからも何度となく読み返していくうちに、その答えを探ってゆきたい。