【読書】 羊をめぐる冒険(下) 村上春樹
彼女がいないのは寂しかったが、寂しいと感じることができるというだけで少し救われたような気がした。寂しさというのは悪くない感情だった。
非現実へと更に足を踏み入れる下巻ではようやく「羊」の正体と「鼠」に出会うことができます。もちろん、幾つかの犠牲を伴って。大げさなどんでん返しもなければ、意外な事実も存在しない。淡々と時の経過になぞらえながら進んでゆく物語は、読んでいるこちらの現実まで、やがて浸食してゆく。そんな不思議な力をもった物語だと感じました。
グズグズと考えていると、いつまでたっても物語から抜けられそうにないので……。二度目の読了で感じたこと、考えたことをまとめておきたいと思います。(ネタバレを含んでいますのでご注意ください)
あらすじ
「背中に星のある羊」を探すための旅が始まった。手がかりは写真と、友人の「鼠」からの手紙。
彼女と二人北海道へ入った二人は、彼女の勘にしたがって「いるかホテル」に宿泊する。難航する調査だったが、灯台下暗し。埃を被った、羊の写真をホテルで見つける。支配人の父は「羊博士」と呼ばれる人だった。
「羊博士」の話によると。背中に星を持つ羊は、特殊な力をもっており、人の精神に入り込んではその人を支配するのだという。
博士も羊に取りつかれていたこともあったのだが、戦時中の満洲から引き上げると、羊は博士の中から去っていった。
その後釜となったのが、「ぼく」に羊を探させるよう依頼した組織のトップ「先生」だということが判明する。
博士のもとに訪れたのは「ぼく」だけでなかった。「鼠」もまた博士を訪れていたのだという。そして、写真の出所、は旭川を更に進んだ、開拓地の「十二滝町」だった。
放牧していた土地は博士から、「鼠」の父へと渡っていたのだ。
さらに北進する二人は遂に「鼠」の所有している別荘へと行き着く。しかし、鼠がいないだけでなく、彼女が姿を消し、羊の着ぐるみを被った妙な男「羊男」が現れる。
「羊男」は明らかに羊のことも、鼠のことも知った素振りなのに、なにも教えてはくれない。
依頼の期日が迫るころ、「ぼく」は依頼主がすべてを知った上で、「ぼく」に羊を探させていのだと、気付き絶望する。
再び現れた「羊男」に、この別荘から帰ることを宣言したその夜、「鼠」は暗闇のなかに現れた。
「鼠」は死んでいた。羊に取りつかれてすべてを支配されるまえに、自ら命を断ったのだという。その羊が人智を超えた力を有し、その力で「先生」の後釜を操り「何か」を企んでいた。
「ぼく」にはどうしようもないことばかりだった。友人との別れを済ませ麓に降りると、依頼してきた男が待っていた。
かくして「羊をめぐる冒険」は終わった。友人に恋人、仕事。様々な犠牲を払った「ぼく」の旅は終わったのだった。
「細胞は一ヶ月ごとに入れ替わるのよーあなたが知ってると思ってるもののほとんどは私についてのただの記憶にすぎないのよ」
細胞の入れ替わりと、人間の更新。それは、意識せずとも勝手に行われているものです。「人は常に変化する」そんな当たり前の事実がぼくらには決定的に欠如している。そう感じました。
だから、目の前にいる人を「こういう人」と決めつけてしまったあとから、その前提を覆すような出来事が起こるたびに「あのひとがこんな人だとは思わなかった」なんて感じるのかもしれません。喪失はいつだって突然来るのではなくて、積み重ねられゆく「変化」に基づいて起こる。そんな発見がありました。
「日本の近代の本質をなす愚劣さは、我々がアジア他民族との交流から何一つ学ばなかったことだ。羊のこともまた然り。日本における緬羊飼育の失敗はそれが単に羊毛・食肉の自足という観点からしか捉えられなかったところになる。生活レベルでの思想というものが欠如しておるんだ。時間を切り離した結論だけを効率よく盗みとろうとする。全てがそうだ。つまり地面い足がついていないんだ。戦争に負けるのも無理はないよ」
「時間を切り離した結論だけを効率よく盗み取ろうとする」そう聞いて思ったのはインターネットのことです。計算や簡単な外国語の翻訳などは、インターネットを見れば直ぐにわかるし、調べ物をするのに、図書館を利用するのは、今となっては専門的な事物だけになっている。 Wikipedia を使えば済む話だからだ。
インターネットを使う人(僕もふくめて)は、そのあまりのスピードによって、結論のみを追えばよくなってしまった。沢山の情報に触れているはずなのに、恐ろしく狭い視野にとどまってしまう。「時代性」を鋭く批判した一文だと思いました。
何かを探しまわることが本当の人生だという風にです
素敵だなぁと感じました。いつかは死ぬことで終わってしまう人生の中で、探したいと思えるモノ、探さなければならないモノがあることは、人生にみのりを与えてくれるように感じます。
お金を稼いで、家庭をもって、安定した老後を過ごす。平凡でいて非凡な、人間の慣習も、きっとなにかを探すためにあるのだと考えたいです。
いつも僕はずっとあとになってから大事なことを思い出す。
「大事なこと」は日常の中で、薄れて行ってしまうものだと思います。すぐそばにいる人の存在が薄れてゆくように。
それでも、「あとになってからでしかわからない」ことも確かに存在するのだと思います。ずっと「慣れない」訳には行きませんから。無意識のうちに、どこかで現実に慣れ切っていて、ポツンと非日常になげだされたとき。日常の価値に気づくのかもしれません。
たとえその現在がすぐに現在性を失うとしても、現在が現在であるという事実は誰にも否定できないからである。現在が現在であることをやめてじまえば歴史は歴史でなくなってしまう。
「歴史」ってなんて不思議なんだろう。いつも感じていることです。身近なものでいったら「日記」その日その日の出来事や、心の模様を書き綴った日記は小さな歴史書といっても過言ではないと思っています。
読み返すとびっくりするんです。「こんなことを書いていたのか」「こんなことを思っていたのか」と過去の自分(書いている時は現在)が別人ではないかとすら感じるのです。
図書館へ行けば、○○町の歴史や、史実を記した古書があります。それらすべての書物でさえ、書かれていたその瞬間は現在であったはずなのに、時を経て、「現在」は「歴史」に組み込まれてゆく。その感覚がいつも不思議に思うのです。
あんたは自分の人生は退屈だと思うかい?
「退屈さ」はその人だけのもの。「羊をめぐる冒険」では凡庸さや退屈さといったキーワードが至る所にちりばめられています。僕なりに結論付けるのなら、「退屈さも凡庸さもその人だけのもの」だと思ったのです。
小学生の頃、給食室でずっと調理を続ける人たちをみて、一日中ずっと料理を作っていてつまらないのかなぁ?と感じていました。会社に向かうスーツ姿の大人を見れば、一日中お仕事をして退屈じゃないのかなぁと疑問に思ってました。
学生になった今。スーツに身を包んだ人も、制服を着て登校する人も、その人の生活がそれだけでないこと。同じ格好をしてても、同じ人は一人としていないことがなんとなくわかってきました。それでも、見知らぬ人の人生への興味は尽きません。電車でとなり合わせた人の人生は、他人にとっては未知なものなのですから。
彼女がいないのは寂しかったが、寂しいと感じることができるというだけで少し救われたような気がした。寂しさというのは悪くない感情だった。
「寂しい」という感情。それは、とても貴重な感情のように思います。「当たり前」の日常では、安心とか安定とかいつも通りと引き換えに、感情が死んでいってしまう。そう信じて疑いません。
「寂しさ」が誰にも向けられるかは、ひたすら限定的なのかもしれません。ぼくは「わけもなく寂しくなること」が大半で、「誰かをおもって寂しくなる」のは稀なんです。記憶の器の底のほうに「寂しさ」はあるのかもしれないと思うのです。
妻が言ったように結局は何もかもが失われていくのだ。自分自身さえもが失われてゆく。
失う得るの繰り返し。人生の繰り返し。「失う」だけに焦点を置く生き方はとても息苦しい。でも必ず「失われてゆく」という事実があって……。動物とちがって「自覚」のある所が、人間の強みであり、弱みなのかもしれません。
まとめ
「羊」が暗示すもの。それは権力ら権威といった社会的なパワーが極めて幻想的であるのだということだと感じました。また、人間という生き物の内面にも深く迫った作品のようにも感じます。主人公が絶えず失っていく過程は小説のなかの話だとは思えない程、リァリティーを帯びたものでした。
主人の行き場のない後悔。それが文章の節々に現れています。喪失の体験の前には、なす術がない。そんな人間像がありありと書かれた文章に考えさせられることは多かったです。
それでも日々は続いていく。世界中がなにかを失いながら。それが、『羊をめぐる冒険』の醍醐味なのかなぁと感じました。