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【ウモ星人からの書簡】 D81 私たちの「UAA」(道徳)

#OOMO
#UMMO

D81
手紙の題名:私たちの「UAA」(道徳)
日付:1969年11月17日
宛先:アントニオ・リベラ氏
原語:スペイン語


私たちの「UAA」(道徳)

したがって、私たちのWOAは、少なくともあなたがそのような性質に与える文字通りの意味では、人間のような属性(善良、賢明、力強さ…)を持つ神ではありません。私たちにとっては、WOAが原因で起こる「悪の問題」はありません。UMMO OEMIIは地球とは多少異なる方法で、モラルと物理的な「悪」を「経験」します。しかし、この「悪」は、私たちの「自由思考の自我」によって生み出されるもので、超越的なもの(AIIOOYA)を当てはめることによって、私たちの意識に、実にさまざまな物理的形態や存在形態を映し出し、 時にそれは多かれ少なかれ「美しい」ものであり、それが私たちの感情をかき乱す時には多かれ少なかれ「悪い」ものとなります。

現在、地球人の社会宗教的な背景の項目で、自分の存在の不安や苦悩に対する返事を神に求めて安心したいという傾向は、私たちにはありません。私たちはWOAに「お願い」するのではなく、感謝の気持ちだけを彼に「伝える」のです。私たちは生成者を愛しています。しかし、生成者は私たちにはアクセスできない存在であり、私たちの意識を超越しているので、私たちのWAAMの概念や精神的価値や理想の規模はAIIOOYAには到底及びません。 この愛を他のEESEOEMII(兄弟)たちに投じ、この愛を洗練した社会道徳とAYUYISAA(社会ネットワーク)への厳しい義務に変換しています(註5参照)。

註5.
私たちはOEMMI全体をネットワークに見立て、その結節点や合流点は生理的な有機体を表し、「枝」は物理的、心理的、道徳的な秩序のつながりを表します。二つのIBOO(結節点または中心)間の測定可能な情報の流れは、ネットワークの程度または段階において、この関係を分析して定義します。

このように、私たちはこの道徳を二つの源泉から練り上げます。 一つは、私たちのUMMOWOAの啓示で与えられる永遠で変更不可能で静的なものであり、もう一つは、私たちの兄弟の積極的な参加によって、時間と空間に慎重に適合する新しい解釈と形式を絶えず練り上げ、充分に進歩した文化と、神経皮質化のゆっくりとしたプロセス、そして私たちの生活様式への技術適用によって条件付けします。私たちの道徳は、このように、OEMIIとその社会環境の状況に合わせて、その都度変化しているのです。UMMOのWOALAOLOO(宗教哲学の専門家)は、祖先の文明の段階に回帰するよう唱えたことはありません。私たちのOYAAには地球の神話にある「高貴な野蛮人」という表現はありません。

また、私たちの倫理はOEMMIの自由を阻害するような慣習の、不合理な習慣や「タブー」という空虚なもので、社会環境からの圧力に縛られ、息苦しく感じることはありません。

リベラ・ヨルダ氏には、私たちの道徳律の総合した定義を提供致します。

UAAとは、現在の知識の段階に基づく観念の集合体によって、精神的・物理的な強制なしにEESEOEMIIに課される一連の法律です。これらの法則は、OEMIIの状況や精神的なレベルに応じて、具体的な規範として明示され、その状況やレベルは常に進行過程にあります。

変化する倫理観の真偽は、個人の道徳とAYUYISAA(社会)の道徳の要求の間で達成されたバランスによって評価されます。

私たちのIGIOI(自由)の概念について、さらにあなたを啓発します。



(訳註:D74に対応する註1、2、3はこの手紙に掲載されており、註9は今のところその参照先が不明です。)

註9.
宗教あるいは哲学の学派を攻撃し、真理を汚していると非難するのは不当ですが、ローマのカトリシズムは、その師の思想を忠実に解釈されることなく、自らを制度化し構造を複雑にすることによって、見事に自らの網に絡まり、深刻な内部の緊張を伴う悲しい危機に至ったとしたら有罪でしょうか?

福音主義教会は、聖書のテキストに文字通りの解釈を見出そうとするあまり、自らを細分化し、必然的に混沌とした多義性を持つようになってしまったのでしょうか?

マルクス主義の弁証法的唯物論は、科学者を決して満足させることのできない擬人化された神、悪に同意する神、謙虚なOEMIIの不幸から権力者や金持ちを守るように見える神の仮説を否定することに罪があるのでしょうか?

人間が同胞を理解することも理解されることもできず、自らの地球を地獄にしてしまうという悲劇的な問題に気づいている実存哲学は、罪深いのでしょうか?

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