「分からない」が「分からない」
多くの教師が初任者指導等で「分かった?」と聞かないようにしましょうと、指導を受けたことがあるのではないでしょうか?私もその1人です。「分かった?」と聞いても、子供たちは、反射的に「はいっ!」といいお返事をしてくれます。そう言っておけば、教師のみならず多くの大人が満足そうにしてくれるからです。
しかし、よくよく聞いてみたり、テストをしてみたりすると、全く分かっていないことが判明。多くの大人が「分かったって言ってたじゃないか」と思ってしまいます。
私自身も勉強をする中で、『あえて「わからない人?困っている人?」と聞くと、安心して、「わからない」が言えるようになるよ。』と教えていただき、その言葉を鵜呑みにしていました。
いざ、教室で聞いてみると、何人かが、正直に「分からない」と答えます。「分からないと、正直に答えてくれてありがとう。じゃあ、どこが分からなかった?」と聞くと、どうなったでしょう。
「どこが分からないか、分からない」
当時の私は、「・・・・・・・。」という状態でした。
心の奥では、「分からないところを教えてくれないと、こっちも分かんないよ」と叫んでいました。
西林克彦さんの「わかったつもり」と「知ってるつもり」です。
これらの本に出会い、少しずつ「分からない」ことの本質が見えるようになってきました。(こう言っている私が、わかったつもりになっているかもしれないと、怖くなっています。)
上記に引用したように、分からないが言えるようには、ある程度の知識があるなどの「足がかり」が必要です。
それがない子供たちに、「分からないことを言って」と聞くのは、酷な話です。我々教師が、子供たちに「分からない」を自覚させるためにさまざまな教育活動を展開していかなくては!と痛感しました。
「分かる」ことも大切ですが、これからの社会を生きていく子供たちにとって、「分からない」ことの自覚こそが必要な気がしました。
『「分からない」が学びのスタートだよ。「分からない」って宝物だよね』と言葉だけ投げかけても、苦しんでいる子供にとっては、「何を言っているんだ」と思われてしまいます。
もう一度、指導観を改めなくてはと、考える著書でした。
ありがとうございました。