母語は反故にできない
前回、外国語学習においては母語から逃れることはできないということに触れました。
今回はこの点をもう少し掘り下げていきたいと思います。
学習者の母語である日本語を交えずに英語で話すことを学ぶ授業と、英文を公式に当てはめるかのように決まった日本語に訳している授業。以前から「英会話」と「訳読」は英語の学びにおいて対極に位置するものと考えられてきました。しかし、ここには共通点があります。日本語の軽視です。
英語を話していても、特に初学者の場合は頭の中で英語を日本語と対応づけ、脳内で翻訳しています。読んでいるときも同様で紙に訳を書いたり口頭で訳を言ったりしなくても、頭の中で訳していることが多いのです。訳読は日本語が表面に現れる学習形態ではありますが、機械的な訳語の当てはめでは英語を読んだことにはなりません。意味がわからなくても文字列を変換すればよいのですから。boyを「少年」と機械的に訳す作業はABCをXYZに置き換える作業となんら違いはないのです。
日本語を母語とする学習者に英語を教える英語母語話者には、日本語をある程度知っていて、学習者の話す英語に日本語からの干渉があることに気づきそれに対処できる、あるいは干渉を未然に防ぐ配慮ができる能力が求められます。そのうえで教室の中では「日本語のわからないネイティブ」を演じることが求められます。日本語ができない素人では務まらない仕事です。訳読にしても日本語を熟知した教師による導きが必要です。つねに、原文の英語と訳文の日本語が(ほぼ)同じ内容を表しているのかどうか確認していくことを学習者に求め、それを導いていく必要があります。
外国語学習は、母語をアンインストールして別の言語を新たにインストールするのとは違います。干渉する可能性があるプログラムがあることを承知の上で、干渉の回避や修正を試みながらインストールしていく営みなのです。