「旧型受験英語」を見直す
「旧型受験英語」と「現代型惰性受験英語」
今回は「旧型受験英語」の行方についての私見を述べたいと思います。これは訳読を中心としたものとして知られているものです。問題集と単語帳を中心とした「現代型惰性受験英語」よりひと世代前のものです。
訳読の復権
まず、訳読そのものについては、残すべきだと考えています。これは以前からここで述べていることですが、英語と日本語をただ機械的に対応づけるというのではなく、しっかり翻訳することを通じてその過程で日本語と英語の共通点や相違点に気づいていくことが大切なのです。こうすることによって英語の発想を身につけ、「自然な英語」とされるものを身につけ、使いこなすことができるようになります。英語の発想というものは英語に触れているだけで感じ取れる学習者もいますが、日本語を母語とする人の多くはどうしても頭の中で英語と日本語とを一対一で対応づけようとしてしまいますから、日本語と英語とを目の前に並べてその違いを自覚することは必要なのです。
文法学習の必要性
ふたつ目は前の点と関連しますが、文法を取り立てて学ぶことについてです。これも私は今後も必要だと考えています。現在は以前と比べて単語として英語などの外国語が日常生活に入り込んでいるとはいえ、英語を生活の中で使う場面は非常に限られています。日本語と英語も言語の系統として著しくかけ離れています。日本語からの類推で英語のしくみをつかみ取るには無理がありますから、ただ英語に触れていても限界があります。このため、英語の文法をいわゆる4技能からいったん切り離して取り立てて学んでいくことが必要です。ただし、切り離すと言っても読んだり書いたり、聞いたり話したりするときに役立たなければ意味がないですから、これら4技能とつねに関連づけて学ぶことが求められます。
いわゆる「教養英語」のこと
最後にいわゆる教養英語的なものについてですが、これは大学入試には不要になる可能性が高いものの、必要であると考えています。文学や哲学的な思索に英語の文章を精読することによって触れていくことは決して無駄なことではありません。西洋の教育課程では伝統的に文学や哲学も重んじられています。グローバル人材ということを真剣に考えているならば、こうした「講読」を中等教育から高等教育への橋渡しの時期の学びから外すわけにはいかないでしょう。もちろん、こうした素材をどう使うかについてはいろいろ考えられます。前述の翻訳の素材として活用するのでもよいでしょうし、これらの書物(の一編)をもとに議論するようなことがあってもよいでしょう。その時の議論は英語の習熟度によって日本語でも英語でもよいでしょう。