「フィーリング」という謎理論
よく、「フィーリング」って言ってるけど・・・
今回は、いわゆる「フィーリング」のお話しです。よく、英語の入試問題などを「フィーリングで解きました」という受験生がいます。果たしてこれは本物の「フィーリング」なのでしょうか。
「フィーリング」と「言語感覚」
結論から言うと、ふだん日本語だけで生活している人がたまに英語に触れたときだけフィーリングが働くということはありません。言語感覚というのは、霊感でも山勘でも第六感でもありません。母語である日本語と目標言語である英語とを、つねに比較対照させながら、日本語の直感からでも捉えられる部分と日本語の直感を働かせてはいけない部分とを切り分けていくことで英語の発想のようなものにたどり着きます。これは実際に生の英語に触れたり、その日本語への翻訳を試みたり、和文英訳に取り組んだり(これも翻訳です)することによって培われていきます。そうして培われる言語感覚が、いわゆる「フィーリング」なのです。
文法問題集は「フィーリング」を養うのか
文法問題集を解いていても「フィーリング」は身につきません。入試の文法問題のうち「新作」問題はごくわずかで多くの問題が流用です。30年間くらいの大学入試、センター試験・共通一次、英検の問題を分析していくと、文と選択肢がそっくり同じものがあちこちから出てきます。そうして繰り返し「パクられた」ものが「頻出」問題として問題集に収録されます。つまり問題集の「頻度」は実際の英語における頻度とは違う単なる出題側の都合によるものなのです。このような問題集を括弧の周辺だけいじって解答することを繰り返しても英語の「フィーリング」など身につかないのは当然といえます。(逆に言えば、文法問題集の特性や限界を踏まえて上手に活用すれば、それなりの学習効果が得られるという見通しも立ちます。)
惰性は、だせぇ
言語感覚は適度な緊張感のもとで研ぎ澄まされていきます。同じ問題集でも惰性で1000題解くよりも、あれこれ考え悩みながら解く100題の方が価値があります。簡単なものを読むよりもある程度難しいものを読む方が、挨拶のような会話よりも文章を書く方が、そうした緊張を強いられることが多くなります。国語の授業で文学作品を取り上げるのには、非日常的な言葉遣いに触れることで言語感覚を磨き上げるという意図もあります。日本語でも英語でも、「フィーリング」は簡単に身につくものではないのです。
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