発達検査

ここ一年ほど、事務仕事にまったく集中できなくなった。
気が散って全然仕事が進まない。
さすがに「鬱か?」と思うようになった。
夜眠れないのではない。
食欲が変化してることも無い。
ただただ気が散って仕方がない。
気持ちは焦るのだが、取り掛かれない。

困った・・・・
このままだと会社にも部下にも顧客にも迷惑をかけてしまう・・・・

何も考えずに、何もないところで、独りで1週間程ぼんやりと過ごしてみたい。

そんな焦りから精神科を受診してみた。

ところが、医師と面談していて話をしていると自分でも鬱では無いように思えてきた。
夜は寝れているし、食欲も極端な変化があるわけではない。
ただただ気が散って集中できず何も手が付けれないのである。
医師から幼少期の話を振られた。

「子供の頃にも今と似たような事があった?」

そう質問された瞬間に自分でもピンときた。
自分は鬱では無く「発達障害」だ。
メンタルヘルスや自閉症の勉強をしていて、以前から自分には注意欠陥多動、いわゆるADHDの傾向があるように思っていた。
この時、医師に問われるまで、そのことを忘れていた。
簡易検査を受けてみてもADHDの傾向が強いという結果だった。

「鬱の治療をするか、大きな病院で発達検査を受けてみるか、どうする?」

と聞かれ、現状の課題よりも、一度自分の状態を明確に把握したくなり、発達検査を受けてみることにした。

その医師が書いてくれた紹介状は仕事でも何度か出入りしたことのある地元でも有名な病院だった。
個人的には結果が出たら職場でも説明してオープンにするつもりでいたが、仕事上の関係で、すこし戸惑いを感じた。
しかし、子供のころから自分は「我の利益の為だけの隠し事や嘘は、必ず破綻して罰が当たる」という経験を何度も繰り返してきていて、生き方というものを決めていた。

「魂を汚さない様に生きよう」

というものである。
言うのは簡単だが実践は難しい生き方に聞こえるかもしれない。
実際この生き方を貫く故に、騙されたり、バカにされたり、悔しい思いや、悲しい思いをすることは、いままで何度もあった。
でもそれ以上に、「これが一番楽な生き方」だったのである。


紹介された病院では最初にケアマネージャーから色々と問診を受けた。
非常に丁寧に時間をかけて聞いていただいた。

その後に医師と面談し、発達検査と共に、知能検査も受けることになった。
知能検査は自分が小学校入学して暫くしたころに一度受けた事がある。
ひょっとしたら親は自分の発達について、ある程度は把握していたのかもしれない。

今回自分はWAISという大人の知能検査を受けた。
発達検査もあったため、公認心理士の方を相手に一時間以上は要した検査だった。

知能検査の結果は以下の様なものだった。
全検査IQ/総合的指標
   111
言語理解VCI/語彙や言葉で説明する力などを測る指標
   119
知覚推理PRI/ 目で見た情報を踏まえて論理的に物事を考える力を測る指標
   109
ワーキングメモリーWMI/ 耳から入った情報を短時間記憶に留め、その情報を頭の中で整理しながら考える力を測る指標
   103
処理速度PSI/ 単純な作業を素早く正確に行う力を測る指標
   096

結果について詳しく説明を受けたが、自分なりの解釈として簡単言うと
「口は達者だがデスクワークはまるでダメ」
という感じに理解した。


自閉症スペクトラムのAQ指数は21だった。


そしてADHDの診断では次のようなスコアだった。
A90 不注意/記憶の問題
B71 多動性/落ち着きのなさ
C38 衝動性/情緒不安定
D70 自己概念の問題
E90 DSM4不注意型症状
F78 DSM4多動性・衝動性型症状
G90 DSM4総合ADHD症状
H75 ADHD指標

診断結果の用紙には「治療の必要性が示唆される」と書かれていた。
衝動性以外は断トツでADHDである。

診断結果を受けて、再度医師と面談。
いろいろと解説をしていただき、場合によっては薬物治療もあるが、医師の見立てでは

「あんた仕事でも実績上げてるようやし、責任ある立場に立ててるし、今は大丈夫やろ。睡眠障害とか食事とかの問題が出てきたら、また考えよう」

という事だった。

当初の悩みだった「集中できない」が解決されたわけではないけれど、幼いころから漠然と感じてきていた周囲の人たちと自分との違和感、誤解を恐れずにハッキリ言うと「同種の生物とは思えない」という感覚が、少しスッキリした気がする。

社会という大多数から逸脱した特性をもつという事に、生存本能が危機感をもつことは自然な事だと思う。
そう思えば、間違いなく自分もみなと同じ「同種の人間」なのだろう。
いまならそう思える。

出た杭は打たれる。
出過ぎた杭は打たれないのでなく、抜かれるだろう。
抜かれた杭はどうなるのだろう。
どこかで再利用されるかもしれないし、放置されて錆びて使い物にならなくなって忘れ去られるかもしれない。
はたして自分(私たち)は「杭」なのだろうか?
自ら考えて、立って、取捨選択して、歩いていく事が出来るなら、ただの杭ではないはずだ。
自ら進んで思考することを諦めて杭に成り下がる事は無いのではないか。

自分に無いものを嘆いていても、いたずらに時が経過していくだけだろう。
それよりも与えられたカード(財産、能力、人脈、時間など)で、どうやって楽しむかを考えた方が良い。

ただし"魂を汚さない”様に気を付けて。

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