1940年。 レースを編むのは、これが最後かもしれない
こんにちは! おとといから『毛絲編とレース編』(主婦之友社)という戦前の本をご紹介しています。
下の写真は、この本についていた別紙の「図案集」に載っていたもの。男の子のための、メリヤス刺繍の図案です。何の絵に見えますか? バットを構えた野球選手?
いいえ、そうではないのです。次の写真をごらんください。
文字をよく見ると真ん中の図案は「歩兵」、下は「鼓手」と書いてあります。その上は「飛行機」ですが、旅客機ではなさそう。
そうです。これらは戦地に向かう兵隊さんの図案だったのです。編み方のページには「お子さん方の喜ぶ兵隊さんや飛行機の刺繍を入れました」とあって、こういうイラストが添えてあります。
「国家総動員法」という法律は、この本が出る数年前にすでに成立していました。国全体が戦争に向けてのめり込んでゆく時代であり、子どもたちはその雰囲気をこういう形で吸収していたのです。きのう「スリップの飾ヨーク」の写真が載ったページをお目にかけましたが、その次のページには「主婦之友編輯局」による序文みたいなのがあって、そこにこういう文言が読まれます。
それから、これもきのうお見せした「花嫁講座総目録」のうち『婦人衛生と育児』の宣伝文にはこうあります。
レースの美しさとは裏腹に、何とも気が重くなるような言葉ですね。『花嫁講座』をお祝いにもらったお嫁さんのうち、何割くらいが幸せな家庭を築けたでしょう。戦争で夫を亡くした人も多かったのではないでしょうか。
いまご紹介している『毛絲編とレース編』が出たのは、昭和15(1940)年の4月でした。同じ年の7月7日、「奢侈品等製造販売制限規則」(通称七・七禁令)という法律ができます。富裕層の贅沢を取り締まることが目的でしたが、大多数の庶民にまで締めつけの雰囲気は広まり、パーマをかけることや華やかな服装が街頭で直接批判されたということです(朝日新聞 2015年3月28日付の記事『あのときあれから 昭和15年』より)。
この年はいわゆる「皇紀二千六百年」にあたっており、盛大な記念祭も行われました。しかし現実を見るならば、すでに物資の統制が始まっていたのです。
作家・田辺聖子(1928〜2019)さんの自伝『欲しがりません勝つまでは』には、昭和16年〜終戦までの女学生の日常がリアルに描かれています。
こんなふうに戦時中の木綿製品不足は深刻でした。アメリカからコットンを輸入できなくなったからです。「スフ」とは「ステープル・ファイバー」の略で、木材パルプを原料とした人造繊維でした。代替品として奨励されましたが、洗濯に弱く「スフ・スグ切れる」などと言われたとか。衣料品を自由に買えないのに「二、三べんはくと破れる」では本当に困りますね。
つまり昭和15年前後を境に、もはや日本はレース編みどころの雰囲気ではなくなってしまったのです。貴重な木綿糸を「モチーフつなぎ」に費やすことなどできません。レースの衿や手袋を編んだとしても、身につけて町に出たら叱られてしまいそう……。
『毛絲編とレース編』を手にした女性のうち、何人がレースのテーブルクロスを編み上げたでしょうか。それらはどうなったでしょうか。
私が知るかぎりでは昭和15年以降、日本で「レース編みの本(冊子)」が出版されることはずっと途絶えていました。やっと再開するのは戦後の昭和22年くらいからです。『毛絲編とレース編』でレースを解説した先生方は、どんな思いだったでしょうか。「レースを編むのは、人生でこれが最後かもしれない」と思う人もいたかもしれません。
私はこの本を見て、
「こんな時代でも、こんなに凝ったデザインの大きなレースが紹介されているんだ。すごいな〜」
と思っていたのですが、自分で編んでみて、説明に間違いが含まれているのに気づいてからは、
「やっぱり余裕がなかったのかもしれない」
と思うようになりました。私の考えでは、解説をしておられる先生はご自分でデザインや製作をされたのではなく、ヨーロッパに昔からある古いデザインをそのまま載せておられるのではないかと思います。だからうっかり間違いが生じたのではないかと。
ところで、これはこのあいだ偶然気がついたんですけど!
昭和15年の7月7日、つまり「七・七禁令」が出されたまさにその日、地球の裏側では、のちにビートルズの「リンゴ・スター」と呼ばれることになる人物が産声を上げています。ジョン・レノンとポール・マッカートニーも同じ年に生まれています。
めぐり合わせって面白いですね。