2022年8月に託されたこと
昨年の夏
2022年8月上旬。夕方間際。近所の大伯母から、「スイカがあるから来な」と電話が入りました。
これはいつものことで。旬の野菜が出来たときは、自分の子供たちや、私たち親戚、近所の知り合いに配っていたようです。
大伯母は、2018年に亡くなった私の祖母と同い年の昭和12年生まれです。
祖母の兄に嫁いできました。
なので、大伯母が一人で住んでいたのは祖母の実家に当たります。
ちなみにその夫である、大伯父は2021年に亡くなっています。
少し話が逸れました。
この日もスイカの他に、長ナス、大葉、枝豆、きゅうり、瓜。夏野菜が台車に乗せてありました。
「ほら、どれでも持っていきな。枝豆はどうする?ここで(枝から)取ってくか?」
「うん、そうする」
逆さまにしたビールケースに座って、枝豆をもぎりながら世間話をしました。
大体もぎり終わると、「スイカでも食べてくか?」と言われたので、遠慮なくいただいていくことにしました。
母屋とは別に離れがあって、古めのコンロと流し台があります。何か簡単な作業をするときはそこを使っていました。
15cmほどの、三角に切り取られたスイカ一切れを受け取ります。
「ほら、そこ(ビールケース)に座んな(座りな)」
「はい」
大伯母は話が苦手だと言いながら、そんなことは全くないのです。
引き出しがたくさんあります。顔の広い家、その長男の嫁だからか、元々そういう人なのかは、私には分かりません。
野菜の話。近況。私の祖母の遠縁にあたる、我が家の隣人との過去のやり取りの話(これは聞いておいて凄く助かったと思った内々の話)。
8月。夕方はまだ暑く、だけど風が吹いてくれると嬉しくなるような季節でした。
「本当にね、今は物がたくさんあるけど。おばちゃんが子供の頃は何にもない時代だったんだよ」
そろそろ終戦記念日も近づいてきたからか、思い出したことを話し始めました。
祖母からは聞けない貴重な話
冒頭で少し述べましたが、大伯母と祖母は同い年で、茨城県出身。
現代となっては車で行き来しやすい距離ですが、戦時中となると過ごした環境がかなり違いました。
※ お詫び:貴重な話ではありますが市町村名は伏せます。
祖母の実家(私が現在住んでいる地域も含む)は軍需工場や飛行場もないので空襲に狙われることがほとんどなかったようでした。
それよりも、隣の市の方がそういった軍需工場が多かったので空襲に遭っていました。
(これで、何となく分かる人は分かると思います)
敵機は、空襲が終わると時々帰りがけに祖母たちが住んでいる地域を通り、残った弾を撃っていくとか、掃射攻撃していくことはあったようです。
隣の市の海岸には、逃げ切れなかった人たちの遺体があったので、大伯父(祖母の兄)はその後片付けの手伝いに駆り出された、という話を聞いたことがあります。
が、今よく考えると、長男だからとはいえ、小学生の高学年にそんな酷なこと本当にさせたのか…?
話してくれた、祖母だったか母だったかは、もういないので容易に聞き返すことは出来なくなってしまいました。
終戦したのが小学生低学年(2年生)だった祖母。元々の口下手さも相まって、昔話をそんなにしたがらないので、私が「授業やテレビではこうって言ってたけど、そうなの?」という質問に対して、「そうだよ」とか「忘れちゃった」と返してはくれました。
しかしそれは言わば、誘導尋問に近かったです。そして大抵は「もう昔のことだから忘れちゃった」。
「天皇陛下の肖像画が昇降口にあって、朝、挨拶してたのも本当?」
「してたよ」
「ふぅん…」
こんな調子で尻切れトンボな会話なので、思い返すと、本当かな…となってしまうのです、虚しいかな…。
ひとつ。数回話していたのは、「通学途中の林などにコジキがいて怖かった」ということです。
余程、小学生の祖母には怖かったのだろうなという印象に残っています。
しかし確かに。私も小学生低学年の頃を思い出してみてと言われたら、「うーん、こうだったかも…?」とすごく曖昧な返答をする自信はあります。
一転して、大伯母は県内で栄えている市の生まれで、家自体は中心街から外れていたようですが、空襲の経験はあったようでした。
嘘だとは思っていません。でも紙製のランドセルが存在していたというのは初耳だったので、上手くリアクションが出来ないでいました。
後ほど調べてはみるものの、私の調べ方が甘いせいか情報は少ないです。
でも確かに紙製のランドセルは存在しました。
大伯母が言っていたような絵柄が入ったランドセルもあったようです。
その他は、
シラミ除去の薬をかぶりに、週に一回手拭いを持って学校へ行った話。
(手ぬぐいは、最初は顔を覆い、終わったら頭に被って帰る、ということまで説明してくれました)
大人たちは畑作業の肥やしをどこからか手に入れてくるのだという話。
(人糞を使っていて、どこかの家の便所がいっぱいになると貰ってくる?らしい。それは大きな味噌樽みたいなのにたくさん入っていたとか)
「そうなんだ…。
おばちゃん、ここには何年前に嫁いできたの?」
「もう60年前近くになんじゃないかな」
「なんかここって、…豚飼ってたとか聞いたことある」「ああ、嫁いできたとき居たけど、これは自分たちが食べるんじゃないんだなって思ったよ」
(私の曾祖母が子豚から育てて、頃合いになったら売りに行ってたという話を以前に母から聞いたことがあった)
この日は2時間ほど話して、「すごい貴重な話を聞いたぞ!」と思いながら帰宅しました。
これは残しておかなければと、夕飯の準備は後回しにして、とにかく書き殴りました。
それからお盆が過ぎ、お彼岸がきて、祖母たちの墓参りをすると既に花が供えてあって。
庭で育てていると思われるその花を一目見て「あぁ、おばちゃん来てくれたんだな」とほっこりしたのを覚えています。
これは託された?
その年のお彼岸から一ヵ月もしないうちに大伯母は急逝しました。
他の親戚から連絡が入って、私はとても混乱しました。
今でも鮮明に思い出せます。
出先で急に倒れてそのまま…とのことでした。
今日もいつも通り過ぎていくのだろう、と本人も思っていたかもしれません。
しかしそんな最期も大伯母らしいっちゃ、らしいのかなと皆で話していました。
「肇ちゃんも【旧姓】家として参列してほしいの」
大伯母の家族(私の母のいとこたち)に言われ、私は「はい、是非」と葬儀に参列しました。
こうしてまとめていると、大伯母はもしかして、無意識のうちに「今話すしかない」と感じ、私に話してくれたのでしょうか。はたまた話題がなかったから、偶然、たまたま話したのか?
正直分かりません。分かるわけがありません。
でも、こうして大姪(言ってしまえば血縁はない)に、自分の子供の頃の貴重と言える内容を話した事には、何か意味があるのだと考えます。勝手にですが。
そして私は、この出来事や内容は、残して、発信していくべきだろうと思い立ちました。
余談、ふたつ
ひとつめ。
大伯母の連絡ツールは固定電話を使うのはもちろんですが、ガラケーも使いこなしていました。
凄いなぁと思っていたら、最後の数年はスマホまで。
それもらくらくスマホではなく、私たちが使うようなスマホ(android)を使いこなしていました。
専ら通話のみで、LINEは見るだけですが。
それでも「億劫だ」と笑いながら、子供たちが送ってきた孫の画像を、スッ、スッとスワイプしていくのです。
以前見せてくれたとき、「なかなか慣れてるな」と感嘆したものでした。
「ぐーぐるとか、ゆーちゅーぶとかって文字が出てくると分からん」
「(行きつけの)スーパーのポイントを貯めるのに、レジの人に聞いても、60代くらいだとね、分からないって言われるんだわ」
年を重ねても、古いものも大事にしながら、新しいものに臆せず馴染んでいく様は、いつでも尊敬していました。
こんなおばあちゃんになれたらと、目標の一人です。
ふたつ。
こういった貴重な話なので、本当はすぐにでも投稿したかったです。しかしなかなか上手くまとめられず、納得できずで、ほぼ1年が経過してしまいました。
今年も終戦記念日を迎えます。
平和であることと、食べ物や物資に困らないことの有り難さを、今年も改めて認識するために1年かけたのだと思えば、時間をかけたことも意味があったと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
【8/14追記】
アメブロ投稿してみました。