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「全員に麻薬をぶち込んで頭おかしくして幸せにすれば全員幸福では?」への違和感について

はじめに


 「全員に麻薬をぶち込んで頭おかしくして幸せにすれば全員幸福が達成できるのでは?」

という話を友人にされたことがあります。
 あくまでも危険思想の吐露ではなく、「明らかにこの理論には違和感を感じるが、それが言語化できないので反論できない」という形での話でした。

 形としては「催眠術で幸せだと感じさせた状態にする」「脳みそに直接喜びを感じる電気信号を与える」などとも言い換えができます。

 その時私もあいまいに答えてしまったので、これに対するかっちりとした返答をしてみたいと思います。

 ここでは「幸せ」という極めて主観的な内容を扱う以上、あくまで「一般的には幸せと言われても違和感を感じる」「一般的にはこれはOO」「一般的にはこれはXXではない」といった展開が登場します。
 厳密な哲学の世界に入るのではなく、アクチュアルな議論に近いことをご了承ください。
 話を戻します。結論として、「自分との連続性が感じられないからそれは幸せではない」となります。

極端な例として 

 例えば、私事ですが、私の好きな音楽の中には基本友人からは「雑音」「Spotifyがクラッシュした音」「音楽じゃない」「聴く苦痛」と言われるものがあります。

 このとき、友人(Aさんとしましょう)を幸せにする方法として「Aさんの人格を削除して私の人格を上書きして、それらの音楽を聴かせる」が考えられます。

 これは、Aさんが幸せになったと言えるでしょうか?
 多くの人は、「Aさんの体を乗っ取ったハズレが幸せになっているのであって、Aさんが幸せになったわけではない」と感じることかと思います。むしろ、Aさんの人格が削除されていて、これどちらかというとAさんの殺害とも言えます。

 これが基本的な理論になります。

強制変化と自然変化

 それでは次に、「Aさんに薬物・催眠・ロボトミー手術などを用いて強制的に音楽の嗜好を変更し、音楽を聴かせる」ではどうでしょうか?
 音楽嗜好を完全に変更されたAさんは幸せでしょうか?
 何を好み、何を感じ、何を嫌うのかは、人間の輪郭を形作る重要なファクターです。
 この例でもやはり、Aさんは削除され、Aさんに似た別人格(A')にされてしまった、と言えるでしょう。
 これ以降、こういった受け入れがたい唐突な変化を強制変化と呼ぶことにします。


 もちろん、人は変化をしない生き物ではありません。そもそも成長しますし、長い年月を経て音楽が好きになったりもするでしょう。
 5年前、今、5年後では自分がどう変わるのか想像すらできないほどです。
 また、年月を経ないとしても、例えば自己啓発本で自分が変わったり、衝撃的な芸術作品で人生観が変わったり、激しい例だと「この薬を飲むと嫌いなピーマンが食べられるようになります」という薬でピーマンが食べられるようになった自分も受け入れやすいと思います。
 これ以降、こういった受け入れられる連続的な変化を自然変化と呼ぶことにします。
 数多の自然変化を経た5年後のAさんのことは、Aさんだと思えるでしょう。

受け入れられる変化について

 つまり、自然変化では、出発点の自分がまずあって、それが周囲の環境と相互作用を起こし、その結果としての変化が起こります。(急であっても)「自分」というドミノ倒しが連続的に連なっているのです。

 しかし、強制変化ではそういったことは一切なく、外部要因によって勝手に人格が書きかえられてしまいます。いうなれば、映画の途中から全く別のフィルムに勝手に変更された状態です。これでは、肉体だけ共有していても自分自身とは感じがたいものがあります。

 もちろん、どこまでが強制変化で、どこまでが自然変化なのかは人によって異なる程度問題ではあります。
 しかしここでは、「一般的に人間には受け入れられる連続した変化と、一般的に受け入れられない断続的な変化がある」ということにご納得頂ければ問題ありません。
 受け入れられる側の極が自然変化であり、受け入れられない側の極が強制変化であり、この二つがグラデーションで分かれているのです。

グラデーション


 さきほど私が強制変化の説明で挙げた例は図の左側に近く、自然変化の説明で挙げた例は図の右側に近いものなわけです。


 ここで、「全員に麻薬をぶち込んで頭おかしくして幸せにすれば全員幸福が達成できるのでは?」に戻ります。
 これに感じる違和感、これはつまり、強制変化によって自分が自分でなくなることに対する違和感なのだと思います。

まとめ

 麻薬を大量に摂取させられて頭がおかしくなるという変化は、図のグラデーションではほぼ真っ黒側であり、多くの人にとって変化後の自分は今の自分とは別人格の存在なわけです。
 つまり、この感覚においてならば「麻薬で頭おかしくなってすべてを幸せに感じる状態」=「脳みそを改造されてすべてを幸せに感じる人格を上書きされた状態」
と写像しても同値性が失われません。
 このとき、やはり「その人自身」が幸せになったとは感じられません。

 したがって、
分かりやすくするために大げさに表現すると、
 「全員に麻薬をぶち込んで頭おかしくして幸せにすれば全員幸福が達成できるのでは?」
というのは
 「全員の脳みそを生きてるだけで幸せに感じる人の人格に上書きすれば全員幸福が達成できるのでは?」
とこの理論において同値です。

 これもその人たちそのものが幸せになっていると言えません。

 同様に、「すべてを幸せに感じる催眠状態に置かれた自分」「脳に電極を刺され幸せに感じるようになった自分」も、自分とは感じがたい別人格(自分')に置き換えられているだけと言えます。

 上記より、題意は「全員を幸せにする方法」とは言えない、というのが私の最終的な意見です。

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