「人」になってみたかった
「人」になりたいと思ったことはあるだろうか?
僕は、実は何度もある。数えきれないほどに。
人の定義って何だろう。
手足が二本ずつあればいいのか?
いや、絶対に違うだろ
心があればいいのだろうか?
うーん、見た目取り繕うのは簡単でしょ?
お互いを大事にして尊重しあって生きる?
無理無理、直ぐ裏切るでしょ?
地上で生活して道具を扱えばいいのか?
サルの紹介かな?
言語を扱い、思考能力がある
他の生物の言葉を理解できない低能だが何か?
思考力・・・・・・?
最も高等な動物の一類
醜さの話ですか?
正直、よく意味が分からない。
人という種を定義する方法を知らないけど、
この短い20年ばかりの人生でわかった事もある。
それは、
自ら滅びを進んで選ぶ種族である、
ということである。
人は矛盾を抱える生き物である
人は、不思議な生物である。
幸せになればなるほど、本来はその絶対数は増えていくべきだ。
なぜなら外敵が減り、身を守る手段を講じる必要がないからだ。
実際に、アリやハエといった昆虫は同様に増え続けている。
だが、人類はどうだろうか。
この世界で、ある程度の敵は排除することに成功し、
ある意味では覇者として、地球という王座にふんぞり返る害悪となった。
その絶対数は増え続けているが、
それはいつまでも続くものかというと、実はそうではない。
先進国という、幸せになった世界では、
人は少子高齢化をたどることが、ここ一世紀で証明されたからだ。
幸せになると、人類というのは数を減らす方向に行くらしい。
それに、先進国を見ているとどうだ。
歴史を振り返ってみればどうだろうか。
人間の敵は、何時だって人間だったじゃないか。
先進国に生きることが幸せか
僕はこの質問には「幸せだよ」と答えたい。
遠い目で見た時、絶対に幸せだろう。
でも、近場を見た時、中期的な視線では絶対に不幸だ。
日本のような先進国では、60歳まで生きれば何とかその後の生活も保障される。死にたくても死ねない不幸はあるが、生きていることを正義とするので、基本的には幸せなことであると、そう定義できる。
ただ、自分が「心から幸せか」と問われると、
僕には「いぇす」と返す元気はないのが現状だ。
生きたいと思えるほど、強くはないからだ。
生きたくないけど「幸せ」ではある
僕が思うに幸せを享受する為に、必要なギフトがあるとすれば一つだけだ。
それは、「自分を捨てずに、諦める」ということだ。
簡単だって?いやいや、難しいだろ?
普通になりたい、金持ちになりたい、愛されたい、愛したい。
贅沢な生活をしたい、いろんな人に注目されたい、
人に認められたい、友達が欲しい、人気になりたい、
頭がいい人になりたい、天才になりたい。
なんでもいいが、その願いを、一度は諦める必要がある。
それは、簡単なようで非常に難しい事なんだ。
そして、「自分を捨てない」ということも重要だ。
自分を捨てずに、迷子にならずに、腐らない事。
これが本当に難しい。
目標も希望もなく、そのうえで「自分のアイデンティティを保証する」こと。これは、すごく難しい事ではないだろうか。
諦める事の難しさ
様々な見たくない現実を見て、理想の姿と自分を比べて。
君は目の前に自分の理想を叶えている人がいて。
「あっそうなんだ、すごいねぇ」
くらいの感覚で、諦めることができるだろうか。
それができないから、僕たちは難しいと思うんだ。
生きる事が。
きっと、生きることに向いてないんだ。
これは本当に難しい事だと思う。
難しい事だから、諦めきれない事だから。
絶対に譲れないから「生きづらい」と思う。
生きづらいと思って息が詰まる程に、できないんだ。
目の前の事実を見め、認める
まずは、その事実を僕は認めないといけない。
諦めることが本当に難しいということ。
そして、本当はそれがただの贅沢でしかないということ。
だってそうだろう?
日本に生まれたら、文字を読んで読み書き算盤はできる。
世界中でも高レベルな教育を受けて、
僕たちはある程度の知能を身に着けている。
それを、幸せといわずしてなんというのだろうか。
今でも、教育が受けられない人や、
教育を受けても生かせない人がたくさんいるのだから。
僕たちはとても幸せで恵まれていると、自覚すべきだ。
恵まれていて、嘆いているだけのダメな人間だということを。
茣蓙を書いているだけなんだって。
知らないといけない。
身近にいるから劣等感になる
隣の芝生が青いとは、よくできた言葉だと思う。
周りには更に幸せそうな人間がいて、
より一層、夢のような生活をしている人もいる。
そんな人を、見て見ぬふりをしろというのだから、難しいだろう。
それに、学校や会社などのコミュニティに所属していると、
その中で優劣が付けられて、いじめに発展するのも早い。
本当に下らない理由で、人間は人間にトラウマを刻み傷を作る。
悲しい、とても悲しい生き物なんだ。
それは、お互いが「諦める事ができない」から発生する。
人になるために、僕は本を読んだ
毎日に、本気で向き合って生きたことがあるだろうか。
人間になりたい、そう思っていた頃の僕は向き合っていなかった。
ただ泣き喚くだけの、ガキだった。
それも、クソガキである。
でも、本を読み始めて生きるようになって。
いつしか「生きる覚悟を決めて」みて、ちょっと世界が変わった。
寝ているだけの毎日が、人間に怯えているだけの毎日が
やる気が出なくて、泣いているだけの毎日が。
少しだけ、前進し始めた。
とはいえ、一つだけ弊害もあった。
本の世界だけが、僕にとっての現実になったんだ。
それ以外は、僕の世界ではない。
今生きている現実はどうでもいいと思った。
本気で、周りの人は言語が通じないと思っていた。
別の世界を生きている、道の生物だと思った。
小学校一年生にして、完全孤立孤独で、日常会話ができない。
そんな僕は、人間を知ろうとしたという建前で。
本の世界に逃げ込んだんだ。
本の世界はよかった。
誰もが葛藤を抱えてて、正しい言葉を使って、情景の機敏も分かる。
心の機敏を全部書くような駄作はないけど、
それでも、想像ができてある程度の共感を呼び起こす程度はできた。
人って、どんな生き物なんだろう
周りの人は、どんな感覚で生きているんだろう
なんでこの人は、会話が通用しないんだろう
なんでこの人たちは、いじめが楽しいのだろうか
そんな疑問の答えを、世界の疑問を、世界の闇を。
人の中にではなく、僕は本の中に見ようとして、本の虫になった。
勿論、本は楽しかったし学びも多く、今でも小説は僕の教科書だ。
小説の主人公やモブキャラのようになれたら、
僕もある程度は人間になれると思ったんだ。
でも、それは無理で、夢物語で苦しいだけで。
やっぱり現実と、作り物の世界は違う。
それに、伝記の世界とも違って、目の前に急に優しい誰かは現れてくれないんだ。いつだって、僕の周りには敵だけが現れて、敵と無関心の人しかいなかった。
人を諦めてはじめて、僕は人になる
「人になる」ことを諦めて、僕は「理解できないヤバいやつ」になった。
共感されることを捨て、共感することを諦めて。
何より、「普通になる」ことを捨てた。
社会的生き物だけど、
社会性を全部捨てて生きることにした。
そうすると、幾分も生きやすくて、心が救われる。
今でも相変わらず本を読むけど、
これまでよりも自由に尊大に盛大に読んでやった。
それまでは理解できなかったラブコメやラノベも、
積極的に読むようになった。
SFが大好きだったけど、
何時しかファンタジー作品に惹かれるようになった。
好奇心を掻き立て、僕の中で蠢く感情を沸き立たせる作品。
それが僕にとっては最高の作品だった。
そうして「好きなように生きる」と決めた時から、僕は生き始めた。
人生って、いつ始まるんだろうか。
僕は、僕の人生がここから始まったように思う。
ともすれば、僕はまだ8歳になるわけだが、ちょっと無理がありそう。
人とは何だ
人というのは、何だろうか。
容易にお互いを潰しあうし、幸せになれば数を減らし始める。
生物の本能とは、真逆の行動をとり始めるんだ。
更に面白いのは、目の前の幸福にすら気が付かなくなる。
なんとも不幸なことだろう。
日常の中に、たくさんの幸せがあるんだ。毎日ご飯を食べられて、本が読めて、自由に考えることが許されている。
本当は、これだけでも十分幸せなのにね。
僕は、人間というモノを未だに定義できない。
自分が何なのかすら、分からない。
でも、最近は人間っぽくなってきているんじゃないだろうか。
この糞みたいな世界に、染まっているのではないだろうか。
哲学書100冊よりも、
宗教の本20冊よりも、
誰かの人生観、100冊よりも。
自分の人生を自由に選択して自分らしく生きる事ができる。
それができるようになって初めて、
僕は僕の人生を歩き始めた。
そう、人としての生を謳歌し始めたんだ。
人の定義は複雑なんだろう
人の定義は複雑なんだ。でも、形なんて本当になんでもいい。
五体満足である必要はないのだろう。
勿論、できれば五体満足であることは理想的だけど。
要は、その在り方が僕たちを人間足らしめているのだ。
自分で考えて、自分の自由な意思の下に人生を選択できる。
そして、矛盾を抱えて生きる生き物を人間というのだろう。