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一生仕事せずに、遊んでダラダラしたい!が、文章に出てる

こんにちは、レンです。

どうですか、一生ダラダラして生きたくないですか?
たぶん、相当つまらない人生ですけど。

でも、誰もが、「堕落したい!」と思っているハズ。
そして、僕のエッセイにはその心がにじみ出ているらしい。

読んでみて、よくわかる。糞文章だということが。

表現は助長だし、繰り返し表現はあるし、言い換えも多い。
人にアドバイスをしようなどという、汚い感じが感じられる時もある。

何よりダメなのは、言い回しが小難しい。

という、最低の文章である。


読まれる文章には型がある

読まれる文章には特徴があります。
それは、PREP方か起承転結で書かれている事です。

まぁ、誰もが効いたことがあって、
学校で嫌というほど教わる事ではないでしょうか?

人の文章を見てみると、やはり、PREP法でわかりやすい。
若しくは、起承転結で執筆しているので、物語として読みやすい。
人に読んでもらうために、考え抜かれている事がよくわかる。

引き込まれる、興味を惹かれる。
そんな文章になっていると、僕は思う。

それは、noteで情報発信をしている人として、
非常に重要で必要不可欠な能力だ。

いやまぁ、それは分かってるけどね。という心境。

求められているのなら、そういう文章を書きたい。
書かなければならないけど、できない。

今の僕は、それをしないことで心の声を具現化しているからだ。

小説を読むように、エッセイを書いている。
僕はそのような執筆をしているから、多分だめなんだ。
2000文字という限られた中で、起承転結を作る。

小説のように、長い思考の海で始まり、大海の中で沈み込む。
ずっと思考の海に潜っていくと、最終的に底にたどり着く。

たどり着いた海底に、ようやく沈没船を見つけると、本格的に執筆が始まるのだ。沈没船は大きくて、独りで探索をするには難しい。
長い時間をかけて、その探索経路をできるだけ文章にしていく。

そこで初めて、僕は新しい宝物を見つけるのだ。
その宝物を見つけることができれば、終わる。
でも、見つからなければ「今の答え」をみつけて終わる。

だから、起承転結の文章にならないし、起承が長い。

人に読んでもらうには、テンポよく書く。

起承転結で重要なのは、転結の部分だ。人が知りたいのは、その一点だけだからだ。

ならば起承を削って、「転」を盛り上げる必要はあるだろう。
文字を削って、見せたいところを強調して、共感を誘う。
そんな文章で、ちゃんと書けばもっと読まれるのだろうか?

少なくとも、周囲を見ているとそう見える。

でも、一つだけ問いたい。
そのような内容で、僕は人に伝える事ができるのだろうか。
自分が生きづらさを持っている一人の人間として、それでいいのか?

この問いに対して、未だに答えが出せない。
それが、僕のダラダラとした文章になっている神髄だ。

何故、ダラダラと長く醜い文章になるか

それは、自分が迷っているからだ。醜い悩みが表面に出ていて、明確に伝えたいメッセージがなくて。
自分が泣いているだけで、変われていないからだ。

ダラダラとした文章を読んでくれている方、本当にありがとうございます。
とても感謝したい気持ちでいいっぱいです。
同時に、迷い続けていて申し訳ありませんでした。

初めのころのエッセイを思い出してみると

最初のころは、まだ心に余裕があったからか起承転結やPREP法を使用して今したね。このころは、まだブログを書いていたし、その影響もあって常に文章量と、型、記述内容、順番を意識していました。

そのうち、本格的にエッセイを書き始めて少しずつ文章の体裁が変化。
人を変に意識した結果、迷いのある文章に変化していると思います。

それは、本来であれば良い変化なのですが、意識が人ではない所にある証拠です。自分が楽しむ、自分が楽しくを優先している、という所もあるでしょう。でも、そこに甘えが出ているのだと、僕は思います。

本気で楽しむ、本気で遊ぶ、本気で書く、本気で稼ぐ

今年の初め、僕は「苦手だけど稼ぐ文章を書く」という宣言をしました。僕が迷っていたのは、これが原因です。このストレスを超える為に、普段のエッセイは、「手軽に楽しむ」側に思考をシフトし、自己防衛をしてました。

本当は、もっと脳汁ドバドバにしてアドレナリンマックスで書くべきでしたね。本気で「ダラダラして生きたい」と思うのなら、こんな中途半端にやる気のある文章は不要なのです。

もっと、本当にだらけきった文章でなければ人の心には届かないのです。
逆に、もっとやる気のある本気の文章で書かなければ、読まれません。
本気で稼ぐ気がなければ、有料記事を執筆しても稼ぐことができないでしょう。

僕は、「本気でダラダラしたい」のか「本気で誰かの居場所を作りたい」のか、「本気で人の為になりたい」のか「ただ単に稼ぎたいだけ」なのか。

そこが、しっかりと明確になっていないのだと分かりました。
証拠に、実はkindleの小説があります。本気で書いたエッセイ集と小説は、毎日少量ですが読んでもらい、共感していただくことができています。

本気の文章って、伝わるんですよね。面白い事に。

僕のkindle本はここから読めます。良ければ。

僕はグウタラして堕落したい!

心の底から「グウタラして堕落したい」と思う。
そこに本気で挑まなければならないし、
そうでなければ、実現できない。

当たり前だけど、僕はこの生きづらさがある。
これは消えなくて、人間社会で生きていると消えないモノだ。

だから、もっと堕落して、グウタラして。
ダメ人間のようになれたら、解放されるかもしれない。
それはきっと、自分の好きなことをして生きれる世界だから。

正直、生活保護だろうが何だろうが。実現できればいいのだ。
僕は社会で生きることに向いていないし、病院も進められているけど。
やりたいことを実現するには、行くわけにはいかない。

故に、堂々とダラダラして生きるには、本気で取り組むしかないのだ。
その為には「全力で書く」ことと、「全力で楽しむ」ことが必要だ。

人からの視線や自分の在り方を気にしてはいけない。

きれいごとを言えば、「人の為になることを全力で」となる。
自分の本音は「グウタラしたい!」となる。

何度も決意するが、「楽しい」は伝染する

人の「楽しい」はもっと伝染する。
故に、僕自身が「楽しい」とか「幸せだ」ということを、もっと文章に乗せなければ伝わないのだと思う。

人によっては「感情的で論理的ではない」といわれるだろう。
でも、エッセイで「生きづらさを抱えてても大丈夫」と思ってもらうために。僕ができるのは、これだけだ。

生きることは、劇的であることを証明する。

その為には、「生きることを諦めない」と決めた人に届ける事が大事だ。
この絶望だらけの世界で、希望の光が全く見えない中で。
僕は、叫んでいかないといけないのだと思う。

そして。その叫びが届くような内容にしていかなければならない。

それが、僕が人に提供できる"何か"なんだと思う。


ダラダラ生きた今日をエッセイにする

ダラダラ生きる。そう聞くと、なんだか怠けているみたいに思われがちだ。
だけど、これが僕の精一杯なんだ。今は、そう思いながら執筆している。

休日の朝、目を覚ましても特に何かをする気になれない。
目覚めを拒否するように、毛布を頭からかぶりなおす。ポカポカぬくぬくの中で、ほっこりと顔を緩ませた。

スマホをいじり、ネットニュースを無意識にスクロールする。特に興味があるわけでもないけれど、なんとなく目で追ってしまう。そうしているうちに時間が過ぎて、気が付いたらお昼に差し掛かっていた。

クゥゥ~~と、小さく腹が鳴った。そういえば、今日はまだ食料どころか、僕は水も摂取していない。

仕方なしに冷蔵庫を開けて、残り物を適当に食べる。
味なんてどうでもよくて、ただお腹を満たすだけの、味気ない食事。
この行為を食事といっていいのか、親が見たら泣きそうだなと思う。

食後、何かしなければならないという謎の使命感に駆られて、僕は本を開いた。気分的に、ライトノベルでも読もうかな、何があったかなぁ。

なんとなく、昔の異世界ファンタジー本を手に取った。懐かしい表紙に、「どんな内容だったかなぁ」と、ワクワクを抑えられない自分がいた。
楽しみだなぁ、何度読んだか覚えてないけど。

見知らぬ誰かの生活の断片が詰まっていて、軽い気持ちで読み進められる。どんな世界を見せてくれるのか、今日はどんな魔法と出会えるだろう。主人公は、強敵を前にして立ち向かう勇気があるだろうか。

でも、僕の期待に応えてくれることはなかった。
僕が、集中できないから。気付けば文字を追うだけになっていた。

内容が頭に入ってこない。ただ、ページをめくることで「読んだ」という事実を積み重ねていく。読書をしている自分に、なんとなく安心したいのかもしれない。

最低だ、と思った時には本を手放していた。

窓の外を見ると、天気はいい。太陽の光がカーテンの隙間から差し込んで、部屋の隅に落ちている。だけど、その光を浴びるために外へ出る気にはなれない。行動する理由が見つからない。

だって、誰かと会う予定もなければ、特別やりたいこともない。ただ、ぼんやりと「何かしなきゃ」という焦りだけが、頭の片隅に居座り続けるだけなのだから。
僕は、家の外が怖いからな。登山に行こうにも、今のバイクだと出れないし。「はぁぁ」と少しだけ大きなため息をこぼした。

本を読むことを諦めて、僕はアニメを観ることにした。とりあえず話題になっている作品を流してみたが、これが面白くない。
キャラクターが笑ったり泣いたりするのを見て、なんとなく「楽しい」と思いたくなる。でも、本当に楽しんでいるわけではないようで、やはりちっとも頭の中に入らない。

ただ、何もしない時間を埋めるために、そこに映像を流しているだけ。画面の中の誰かの輝きに、少しも目を取られない。悲しい、こんなの嫌だな。
でも、だからといって何かをするわけでもなく、創作意欲もない。

夜になって、日課のような気持ちでPCを開く。誰かの生活が映る画面を見て、「あれ、僕って何してるんだろう」と思う。でも、深く考えたら苦しくなるから、今だけは見て見ぬふりをしたい。
ただ、明日も同じことを繰り返すんだろうな、とぼんやり思う。

それは、きっと不幸なことだ。今向き合うことはできないから、明日はちゃんと向き合いたいなぁ。

きっと、今の僕は何かを欲している。何か大きな目標とか、未来の計画とか、そういうことじゃなくて。
ただ「今」だけを埋める何か。それが欲しくてたまらないのだ。

だらだら過ごしているのは、そんな自分の心の表れだ。
なににも集中できないのは、「お前、いい加減休めよ」って、体と精神が警告している。これ以上は、頑張らないでくれと。
故に、僕はその警告に大人しく従おう。

きっと、こんな堕落しつくした日があってもいいんだ。
そう思うと、少しだけ気持ちが楽になる。

ダラダラした日々の中に、ほんの少しでも「これでいい」と思える瞬間があるなら、それでいいんだ。何も感じなくても、何も得られなくても、こうして過ごしていることに、意味があると信じたい。

明日も、きっとこんな感じで一日が終わる。そんな気がしなくもない。
だけど、その中でふと何かに心が動く瞬間が来るかもしれない。
そんな期待を、少しだけ持って、僕は今日をダラダラと生きていく。

明日は明日の風が吹くのだから
僕はその風に、身を任せてみても良いと思う。

これが、究極の堕落思考だと思うけどね。

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レン_歩くエッセイスト
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