なぜ、あえて義実家に1年住むのか
6月から札幌の義実家に住んでいる。今のところ とても健やかに暮らしている。
出産にあわせて夫も合流。夫婦で1年育休を取り、来年の夏くらいまで札幌の義実家で暮らす予定。(その後は大阪で子育てシェアハウスをする)
嫁姑問題だとか義実家の愚痴を よく耳にするこの時代に、なぜ あえて義実家に住む選択をしたのか。それを残しておきたいなと思って今パソコンに向かっている。
妊娠発覚。どこで産む?
結婚して4ヶ月。
おかげさまで日々が充実し、満たされた感覚を覚えた私たちは、未体験の境地に進もうと妊活をしていた。
妊活開始と同時に不妊の検査もした結果、夫の精子は半分以上 死んでいたり、私の卵巣年齢も37歳だったりと、雲行きは怪しかったものの、ありがたいことに 第一子を授かることができた。
「はて、どこで産もうか」
・私たちが住んでいるのは、大阪府大阪市
・私の実家があるのは、北海道旭川市(の隣町)
・夫の実家があるのは、北海道札幌市
初産の分娩先としてよく聞くのは「妻の実家」。確かに 赤ちゃんという よくわからない謎の生き物を、未熟な夫婦2人だけで迎え入れるには不安が残る。実家であれば安心だ。
一般的な慣習に従い、当初は私の実家に里帰りをするつもりだった。
1年、育休を取らせてください。
妊娠発覚の時点で「夫婦で育休1年を取りたい」という話をしていた。
理由は以下
・子どもとゆっくり向き合いたい
・これからの人生で大切にしたいことや、時間の使い方をゆっくり考えたい
・そこから導き出された「ありたい生き方」を実行するための準備をしたい
・トンガにくじらと泳ぎにいきたい(笑)
私は 女性ということもあり、職場からすんなり了承をもらえた。
対して、夫は ドキドキだった。「どんな反応をされるだろう」とビクビクしながらも勇気を出して、会社に こう伝えたらしい。
すると、ありがたいことに背中を押してもらえることになった。上司からは「その選択をできる日下がすごい」という言葉までいただいた。
「いやいや男性で育休はないでしょ」とか「せめて半年」とか言われるかと覚悟していた我々は、え、いいの!?と逆に驚いてしまった。
本当に、いい会社に就職したもんだ……。
そうして、2人ともが1年 育休を取らせてもらえることになり、次に生じた課題は
「はてさて、その期間 どこで暮らそうか?」
1年は長い。どこで暮らしたっていい。
とはいえ 夫婦で育休を取るとなると、どうしても所得は下がってしまう。
このまま大阪で、月10万円の家賃を払い続けるか?
実家ないし、義実家で暮らすか?
数ヶ月前に書いた やりたいことリストの中に「義両親のことを もっと知りたい」があったことを思い出した。
夫婦で話した結果、
産後数ヶ月は 私の実家で過ごして、落ち着いたタイミングで義実家に引っ越しをしようか、ということになった。
同居に対する義両親の反応
妊娠5ヶ月、年末年始の帰省のタイミングで夫から義両親に話をした。
・育休を夫婦で1年取ろうと思っている
・出産は旭川の実家の方でする予定
・生後2ヶ月くらい旭川で過ごし、その後の1年弱 札幌に住みたい
どんな反応をされるだろうか… 私はビクビクしながら様子を伺っていた。
すると義母がこう言った。
私はこの言葉を一生忘れることはないと思う。
「まぁ、私たちと一緒にいる時間を1年も くれるの?」
果たして、自分がいつか同じ状況に直面した時、同じことが言えるだろうか?
自分なら「どの部屋を使うの?」とか「大阪の家はどうするの?」とか「こっちの都合も確認してよ」とか咄嗟に浮かんだことが、まず真っ先に口から出ただろう。
対して、義母の口から出てきたのは「まぁ、私たちと一緒にいる時間を1年も くれるの?」
この言葉は「どう思われるだろう?」と不安に思う私の緊張を一瞬でときほぐしてくれた。シンプルに「嬉しい」が伝わってきた。
もし、返ってきた言葉が「いいよ」とか「わかったよ」だったとしたら、あとで「迷惑ではないかな」「本当は嫌なんじゃないかな」とぐるぐる 考えてしまっていたと思う。
でも、「まぁ、私たちと一緒にいる時間を1年もくれるの?」では疑う余地がない。しかも "会話の中でその言葉をもらった" ではなく "開口一番にその言葉をもらった" のだから尚更。
私は、心底ホッとした。し、心から義母に尊敬の気持ちを抱いた。
そうだった。こんな義母だから 一緒に住みたいと思ったのだ。
日下家は私が子どもの頃、ほしかった家族だった
私の育った家庭には「団欒」が存在しなかった。
私と姉は決して「仲のいい姉妹」では なかったし(今はわりと仲良くなってきた気がする)、「あいしてる」という言葉もどこにも存在しなかった。
最終的に離婚という結論を迎えたことを父は「親の失敗」と表現したし、母も「結婚観に影響が出ませんように」と心配を募らせた。
対して、日下家には「団欒」も「仲のいい兄弟」も「あいしてる」も存在していた。 私にとって 心から「こうなりたい」と思える家族だった。(詳しくは note 私が子供の頃 ほしかった「家族」に書いています)
「目指したい家族」を間近で観察する恰好のチャンス。一緒に暮らすという選択をする中で、帰省や短期間の滞在だけでは 掴みきれない「いい家族」のつくりかたを 学びたいと思った。
日々どんなことを意識すれば いい夫婦関係を築けるのか…..ぜひ盗んできたいと思っている。
日下秀之のつくりかたを知りたい
私の人生は日下秀之との出逢いによって、はるかに豊かになった。
自分の存在価値を肯定できずにいた私に対し「まりーちゃんはそのままでいいんだよ」を何度も何度も 伝えてくれた。日々の喜怒哀楽を受け止めて、優しいだけじゃなく 時には叱ってもくれた。結果、私の精神は ものすごく安定し、毎日は ものすごく満たされた。いま 本当に幸せなのである。
いつしか私はこう考えるようになった。
「こんな人を世の中に増やしたい」
そのためには日下秀之がどんな環境で育ったのかを知らねばならぬ。
もちろん どんな環境で育ったのかを知ったところで、クローンのように再現できるわけではない。同じ経験ができるわけではないし、時代も、世の中も、出会える人も全部違う。
それでも 彼の育った環境を知ることは、これから子育てしていく上で とても学びが多い気がしている。
どうか これから生まれてくる我が子にも 彼のような素敵な人になってもらいたい。
だから、日下家に住むことで少しでも「日下秀之のような人間のつくりかた」を学びたいと思っている。
いつ死ぬか、わからない
義母の両親は 早くに亡くなっている。
元気だと思っていたところ病気が発覚し、1年たたずに祖父母とも亡くなってしまったらしい。御年60歳。当時、夫は小学2年生。
「あれ いまいくつでしたっけ…… 」
義母はもう、自身の両親の年齢を越えていた。
こんなこと書くと不謹慎かもしれないけれど、義母もいつ そうなってもおかしくないと思った。今はすごく元気に見えるけれど、ある日突然 余命宣告されるかもしれない。
亡くなってからでは、遅い。
今、元気なうちに。
いつか「もっと話を聞いておけばよかった」と思う前に。義両親に聞いておきたいことがたくさんある。
大阪と北海道では 距離がある。
ほっとけば、あっという間に 最後の時を迎えてしまう。
GW、お盆、年末、すべて帰省したとしても、満足いくほど話せるかと言われれば怪しい。
「いつまでも親が元気なわけではない」
頭ではわかっていても、後回しになりがちなことを、義母の両親の話を聞いて 後回しにするのはやめようと思った。
妊娠5ヶ月、帰省で感じる違和感
義実家に1年住みたい話をした後、今度は 私の実家へ行った。里帰り期間の諸々の確認を済ませる予定だった。2日くらい滞在した夜、夫に「(ここの生活)どう?」と聞いた。
すると彼はこう呟いた。
「否定の言葉が多い」
最初 ピンとこなかったけれど、言われてみれば確かにそうかもしれないとハッとした。母は「まったくも〜」とか「あんたは ほんとにもう〜」とかそういった表現が多い。
私は 長年の経験から、母の口から出るそう言った小言を綺麗に受け流す習慣がついていたし、その言葉の中に 母なりの愛情表現が潜んでいたりすることもわかっていた。
対して夫は その耐性がない。夫にとっては このコミュニケーションの取り方はストレスが強い。
さらに、数年前に転職した母には夜勤があった。夜勤前後にしっかり睡眠が取れるかどうかは心の余裕に大きく直結する。
2日過ごす中で、望ましくない未来が容易に想像できてしまった。夜勤前で寝れずにピリピリする母と、頻回授乳で寝れずにイライラする私との言い争いで、夫が削られていく未来……
私の心を安定させるためには夫の安定が必要不可欠。夫が不安定になりうる状況はできるだけ避けたい。
また、地元にある病院ではコロナ以降、どこも立ち会い出産ができなかった。「立ち会いを最優先にしたい」という私たちにとっては致命的…… 。
極めつけに、実家のうさぎと夫との相性も良くなかった。アレルギーなのか鼻水が出て 呼吸が苦しくなり、リビングにそう長くいられない夫……。
「産後数ヶ月は 私の実家で過ごして、落ち着いたタイミングで義実家に引っ越しをしよう」そう思っていた私たちだったが、妊娠5ヶ月のタイミングで実家への里帰りをやめることにした。
大変な時期の同居は歓迎されていないのでは?
実家への里帰りをやめるとなると、選択肢は2つ。
① 大阪で出産し、落ち着いたら義実家へ
② 義実家へ里帰り、新生児期から義実家で過ごす
よくわからないけど産後1ヶ月はすごく大変で、新生児期の母子を迎えるのは とても負担が大きい、という印象。
「産後3ヶ月くらいからの1年の同居」は快く受け入れてもらったけれど、「臨月から産後2ヶ月」は、歓迎されないのではないか…… しかも、ちょうどその時期、義実家は忙しいらしいし…
迷惑なんじゃないかとぐるぐる考え 大阪での出産についてググりまくる私に対し、大阪で産むより実家の方が安心でしょと自分の実家ゆえに緊張のない夫。笑
最終的に やっぱり義実家にお世話になろうということになり、電話でお願いすることになった。緊張しすぎて、どう切り出したか、なんと返されたか、全然覚えてない。とりあえず承諾してもらえた。
不安の中で送った手紙にもらった返事
承諾をもらった後も 不安は抜けないままだった。
本当に迷惑じゃないのかな…。本当は里帰りは自分の実家に行くのが筋なんじゃないかな……。直接話せたら また違ったのだろうけど、電話やLINEでしか反応を伺えない日々に モヤモヤは募った。
もやもやしてても しょうがないので、手紙を書くことにした。
その約1ヶ月後、お手紙のお返事が返ってきた。
全文紹介したいところだけど、勝手にのせるのはよくないなと思ったので その手紙を読んで私が 思ったこと。
息子と孫とは一緒に入れて嬉しいだろうけど、私と一緒にいることに対しては そんなにだろうな... と ついつい思ってしまう自分がいた。けれど、手紙の中の1つ1つの表現によって、「そこにちゃんと私もいるんだな」と居場所を感じられて、ほっとした。
実家の主導権は義実家にある、と我慢を覚悟していたけれど「率直に意見交換できる関係を築きたい」という言葉に安堵。1人の人として尊重されている感覚。
2人の子供を育てあげ還暦もすでに迎えている人が「私も茉里依ちゃんにいろいろ学びたい」と。40年後、私が同じ立場になったとき同じことを言えるだろうか。
手紙のお返事を もらったおかげで、私の不安は一気に吹き飛び、一緒に暮らしていくのがすごくすごく楽しみになった。
夫がコロナ陽性。まさかのソロ義実家
2022年のGWは、夫婦2人で義実家にいき、引っ越し荷物の搬入、居住環境づくり、育児グッズの買い出しをする予定だった。
しかし、ひとあし先に出発した私が札幌についたところで、夫がコロナ陽性。
当初、5月はシェアハウス生活をする予定だった。
だがしかし 濃厚接触者の状態で シェアハウスには いけない……
「札幌で隔離あけるまで ホテル暮らしをするか?」
「でも1人でいて発症したら……?」
最終的に、万が一のことを考え濃厚接触が明けるまで 私単独で義実家で暮らすことになった。
夫がいない中での 初めての義実家滞在……。不安しかなかった。
しかし、ここでの時間が 後にとてもいい影響を及ぼすことになる。
滞在中、義両親と たくさん話をした。当時の日記たち ↓
はじめてソロで義実家に滞在した5日間。
恐る恐る 口にする私の話を一切否定することなく、明らかに違う価値観であろうことも「そんな考えもあるのね」と肯定してもらえて 少しずつ「あぁ本音いっていいんだな」と安心が増えていった。
今までは「こんなこと言ったら、どう思われるかな?」と不安に思って口に出すのをやめ、静かに過ごしていたけれど「ありのままの自分」で生きていけそうだとこの5日間でたくさん感じさせてもらえた。
「助けてください」を言える相手
無事 隔離期間が終わったあと、当初の予定通り5月いっぱい、1ヶ月限定のシェアハウス暮らしがスタートした。大学時代を過ごした札幌だし、いつも誰かしらがいる環境だから大丈夫だろう、と私は安心をしていた。
が、シェアハウス生活が始まって1週間、私は ものの見事にメンタルを崩した。大学時代ほど札幌での暮らしを楽しめていないこと、新しく出逢った人とのちょっとしたコミュニケーションのストレス、夫に会えていないこと、そんなことがあいまって、急に落ち込んだ。これぞマタニティブルー。
そんな時に義母のこんなセリフを思い出した。
この言葉をもらった時は、大丈夫っしょ!って思っていた。しかし ものの見事にしんどくなって「ご飯食べに行きたいです🥺」と連絡をした自分。
これを見越してた義母は本当にすごいし、「連絡してね」だけじゃなく連絡の例文まで添えられていたので いきなりの連絡でもいいんだ、とハードルも下がり 本当にありがたかった。
「助けてください」を言える相手が近くにいるって、なんて心強いんだろう。
もう1つの楽しみ、宗教のある生活
義実家での生活を選んだ理由に「日下家に触れたい」というのと もう1つ「宗教のある生活」をしてみたい、というのがあった。
というのも、日下家は とある宗教への信仰が強く、毎日の中に宗教が溶け込んでいる。(ただし夫には信仰心はない。夫と宗教との距離感はこちらのnoteで紹介しています)
日本人は「無宗教」が多いし、私自身も 葬式の時にしか宗教に触れることがなかった。しかし海外を旅していると「無宗教」である方が珍しく、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教など、何かしらの信仰のもと生きている人の方が圧倒的に多い。日本人は宗教の話を避ける傾向にあるけれど、私にとっては強い関心の対象だった。
宗教のある生活ってどんなかんじなんだろう…… 信じるものがあるって何が違うんだろう…… かねてよりそんなことを考えていた私にとって これはチャンスだと思った。
人生で これを逃したら、こんなに自然に「宗教のある生活」を体験できるチャンスはない気がする。
そうして、タイミングが合うときに 義両親と一緒にお経を唱えることからスタートした。
以下、5月の日記
地域の座談会なるものにも足を運んでみた。
町内会のおじさん、おばさんに見守られながら育った自覚がある私は、都会のマンションで暮らすようになって 地域のつながりが希薄なことに寂しさを覚えていた。
だから この時代にもなお 近所の世代をこえた繋がりがあるのが、とてもいいなぁと思った。
これからの1年でどれだけ理解を深められるのか、とても楽しみでいる。
ちょうどよい距離感
以上が 私たちが義実家で暮らすことを選んだ理由。
今のところ来年の夏くらいまで義実家で過ごす予定でいるけれど、もしかしたら数ヶ月後には 別々で暮らしているかもしれない。
一緒にいることが全てではないし、ちょっと離れた方がうまくいく なんてこともある。お互いにとって ちょうどよい距離感で暮らしていけたらなと思っている。
来年の夏、このnoteを読み返した時に私は 何を思うのか。
「1年、義実家で暮らしてみて思ったこと」というタイトルで後日noteが公開される日をお楽しみに。