むしろ、いてくれないと困る
今日、死ぬかもしれない。もちろん 最後まで諦めてはいない。
でも、いま 書かなければ、もう一生書けない、そう思ってパソコンを開く。
夫サイドのnoteはこちら
断乳と海外ひとり旅
2024年3月、我が子 1歳9ヶ月。ついに母乳を卒業することになった。
2023年8月から 昼間(9-18時)断乳、2024年2月から黒田様の夜勤協力のもと夜間(21-7時)断乳、そして2024年3月31日をもって 我が子は完全におっぱいを卒業した。
夫が言った。
「生まれてからずっと授乳を頑張ってきてくれたわけだし、この際 ひとりで 海外でも行ってきたら?」
え、いいの?
子が生まれてから 子と離れたことがなかった。私がいないと子は眠れないから、外泊するにも常に一緒。ふらっと、ひとりで、なんて夢みたいだった。
男性育休1年取得の 私よりも子育てに細かい夫と、保育園の準備から寝かしつけ、掃除・洗濯まで完璧にこなす住人 黒田に背中を押され、私は 旅に出た。
バングラディシュ、インド、タイ。
その日の宿すらも決めずに 気ままに旅をしたのは 5年ぶりで胸が躍った。
あと数日で帰国、という日。夫から連絡が入った。
我が子が熱を出したらしい。すぐに落ち着くことを願う。
私の不在について聞くと 夫から こう返ってきた。
結局、入院することになり 私は帰国を早めることになった。
「でもまぁ死なんやろ」と内心 思っていた。
1度目の入院 (川崎病)
帰国してすぐ、我が子に会いに行った。我が子と こんなにも長く離れたのは これが初めて。体調の悪さゆえ 機嫌の悪い我が子。診断名は「川崎病」。入院目安は 2週間から1ヶ月くらい。
ここで問題が浮上した。
① 付き添いをするか
② 誰が付き添うか
この病院は 一度付き添うと2週間交代ができない。24時間、機嫌の悪い我が子と向き合い続ける必要がある。「誰も 付き添わない」という選択もできる。
夫は 私に付き添うことを求めた。理由は「我が子は 母を求めているから」。けれど私は断った。
理由は以下。
私は 自身が幼少期に受けた心理的虐待を繰り返さないために シェアハウスを始めた。(詳細:私が「子育てシェアハウス」を始める理由)
子どもと二人きりになると言うことは 私にとって 何よりも避けたいことだった。
同じ時期に別の人に宛てて書いた手紙には こんなことを書いていた。
私の わがままを受け止めた夫は2週間、我が子に付き添ってくれた。
夫からの信頼は失ったかもしれないけれど、我が子を傷つけずに済んで安心もしていた。
家に帰ると 私の選択を咎めることなく、ただ励ましてくれる友人がいた。救われた。
「病院で退屈しないように」と 近所のママ友が おもちゃを貸してくれた。頼れる人が近くにいて幸せだなと思った。
そして2週間経って、すっかり回復して ご機嫌に遊べるようになった頃。数日以内の退院が確定している、というタイミングで私も 5日ほど 付き添い入院をした。
救急車で再度病院へ
退院して 2日後、5月3日の夜、呼吸音がちょっとおかしいな?と思った。顔色も機嫌も さほど 悪くなかったので朝まで様子を見ることに。
朝起きて やっぱり呼吸音がおかしい。だがしかし連休。緊急外来を受診すべきかどうか #8000 に電話をした。
すると、「救急車を手配します」と。いやいや、そんな大袈裟ではないんだけどな、と思いつつ 救急車なら こないだまで入院していた病院にいけるかも、と言うことでお世話になることに。
連休だし、これを逃すと外来あくの2日後だし、と言うことで、念のための様子見入院。なにもなければ2泊の予定。
だったのに。
大学病院へ転院 (急性肝炎)
再入院してイマイチ調子が良くならず6日目。
血液検査の結果、肝臓の数値がやばい と言うことになり、急遽 大学病院へ転院することになった。救急車に乗って移動する我々3人。
降りた瞬間に、救急車を指差し「ぱーぽー!」と興奮気味に いう我が子。そう、あれに乗ってきたんだよ。
ひとまず「急性肝炎」という診断名をもらい、血液検査を受けたり、いろんな薬を飲んでみたり。
幸い、転院先の大学病院は 付き添い交代が比較的自由で、1日ごとに交代ができた。これなら私も頑張れる、と、1-3日ずつ交代で 付き添う日々がスタートした。
それからの日々は一進一退。
ちょっとよくなったかな、と思ったら、また悪くなってを繰り返した。
抱っこ散歩が大好きな我が子。しかし点滴だったり、酸素だったり、いろいろ繋がっていて 部屋から出られず。
Twitterでこんな募集をしたりして、何人かに電話に付き合ってもらった。
下痢まつり(薬害 大腸炎)
転院して 1週間くらい経って、下痢がひどくなった。30分から1時間に1度水っぽい緑色の 下痢が出る。その結果、おしりも ただれてしまい、お尻が痒くて クネクネ動いたり、おむつ替え時に 待ってましたとばかりに 掻きむしったり。
オムツ替えのたびに軟膏を塗って、薬を塗って、と努力を重ねた結果、おしりのただれは よくなっていった。
あと下痢と関係ないけど 川崎病による影響か、唇も 腫れて切れて痛々しい日々が続いていた。段々、唇を指さして「ワセリンを塗ってくれ」と我が子からアピールが届くようになった。
目やにもすごい時期があって、朝起きて目が開かないと「めんめ…..」と訴えた。目薬を刺されるのは とても嫌がった。
毎日 朝昼晩、食後に薬を飲ませる。無理やりでも飲ませるしかない、と聞いていたが、病室で特にやることもなく暇だったので 試しに説得を試みてみた。すると 特定の形状のスポイトで、特定の順番であれば 飲んでくれるようになった。注射器に細い管をつけて、フロベン、ネオラル、インクレミン。
下痢の原因は いろいろ模索した結果、川崎病の治療のために飲んでいた「アスピリン」という薬による大腸炎だったということがわかり、薬を変更することに。
下痢以外は、順調に回復して それさえ治れば 5月下旬には 退院できるかも?というところまで回復していった。
病院食は全然食べてくれなかったけれど、コンビニのおにぎりは好きらしくて、我が子に 空前の おにに(おにぎり)ブームがきた。それと同時にイヤイヤ期もスタートした。
あとは桃屋の「ご飯ですよ」ブームもきた。白いところがなくなるまで綺麗に全面塗りたくらないと食べてくれない。塩分過多が気になるけれど、食べないよりはマシ!と目をつぶった。
個室から大部屋へ
個室から大部屋に移動になって、咳も落ち着いて 散歩の許可も出るようになった。
とはいえ 全然歩いてくれなくなって、オール抱っこ。
「抱っこ」「あっち」「落ちた」が口癖で 我々の腰は崩壊しかけていた。
お散歩を無限にしてあげたかったけれど、点滴のバッテリーは1時間くらいしか持たなくて、隙あらば充電を繰り返して なんとか 繋いで行った。けれどやっぱりピーーーーっと終了の合図はなるときはあって、部屋に戻る説得に大変苦労した。途中、年式の新しい機械に変わった時は2時間くらい 持つようになって、神かと思った。
大部屋に移動したことは 私にとって とても救いだった。
我が子の部屋は 生後2ヶ月から 3歳くらいまでのちっちゃい子部屋で 夜泣きのハラハラを「お互い様」と言い合える 素敵な人たちが集まっていた。
虐待の恐れゆえ 子どもと二人きりになるのが怖い私にとって、大部屋は ここにいる限り、二人きりになることはない 絶好の環境で。カーテン1枚挟んだだけの空間だから、子どもに語りかける声も、くしゃみも、ため息も、全て耳に入る。
「知らない誰か」よりも「さっき話した ◯◯さん」の方が私にとって、より抑止力が働くという下心もあって、積極的に話しかけに行った。
みんな それぞれ大変な状況なのに ものすごくいい人たちで 「今日の(我が子)くん、髪型かわいいですね」だとか、「(我が子)くんに話しかける声が優しくて パパもママも イライラせずに すごいなぁと思ってました」だとか、「(我が子)くんの誕生日、みんなでお祝いしましょうね〜」だとか 声をかけてもらえるようになった。
一緒に病気とたたかう仲間ができて 本当に嬉しかった。
付き添い時の大人のご飯の話とか、医療費の助成額がすごいとか、夜寝てくれないとか、そんな話をできる人がいることで とても救われた。
そう、まじで夜 全然 寝てくれなくて、寝てくれたとしても抱っこで、そーっと降ろそうとすると ちっちゃい声で「おちた」と言う、また抱っこし直して 寝たかなぁと思って 置こうとしても「おちた」と言う、をエンドレスで繰り返して朝を迎える、なんて日が 何度もあった。
いっそ諦めて抱っこしながら スマホにダウンロードした映画をみてオールをした。かと思えば「ねんね」と自分から口にして、抱きあって寝たら すんなり寝てくれる日もあって、睡眠は全然安定しなかった。
あとは、もう どのタイミングだったか忘れたけれど、カテーテル炎症も起きた。要は 点滴の管によるトラブルで、抜かざるを得なくなった。
今までの人生、医療にまったく縁がなかったけれど、だんだんと医療用語にも 慣れてきて、院内にある七夕飾りの短冊に、「カテーテルが長持ちしますように」と書かれているのを見つけて、わかるよ、わかる……と共感できるくらいにはなった。
大学病院の小児科は 白血病の子や、麻痺の子、移植待ちの子など いろんな人がいる。そして 数週間から数年単位で 付き添いをしている親御さんがいる。
院内学級もあって、ドラマでしか観たことのない世界。聞いたことのない病気や、想像していなかった話がたくさんあって、いかに今までの自分の視野が狭かったかを思い知らされる。
白血病が 急激に身近になった我々夫婦は 結婚記念日に 骨髄ドナー登録をしにいった。「16人 適合したのに全員に断られた」みたいなこともあるらしい。私は 依頼がきたら 絶対に受ける。
飲まず食わずの1週間
このまま退院できるかも?と思ったのも束の間。
熱が出たり、発疹が出たり。一向に下痢は治らなくて、ついに 我が子は ご飯を食べてくれなくなった。
「おにに!」と院内のコンビニで おにぎりを買ってくるように ねだるが、買ってきても 我々に食べさせようとするのみ。
冷蔵庫を指差して「あけて」と言うので、冷蔵庫を開け 中身を1つずつ取り出し「これ?」「これ?」と聞いていき、そのうち 頷く我が子。
「食べる?」と聞いて「うん」と言われて開封するも、私の口元を指差す。私に食べてほしい、と言うこと。
自分は食べないが、親には食べてほしい。永遠にこれの繰り返し。
飲まず食わずの我が子は 日に日に弱っていき、5月27日 シェアハウスの住人LINE宛に夫から 注意喚起が送られた。
今日も食べない。今日も食べない。
これなら食べるか、あれなら食べるか。やっぱり食べない、の繰り返し。
入院している大学病院には 保育士さんがいて平日 1日30分 子どもを預かってくれる制度があった。
私からは食べないけれど保育士さんからならと思って頼んでみる。5月30日、ついに食べた。ほんのひとくちだけど、ようやく回復に向かう気がして ほっとした。
その後、牛乳を飲んだときには 看護師さん、保育士さんから大歓声が上がった。我が子を支えてくれている人、応援してくれている人が こんなにいるんだなと嬉しくなった。
ちょうど その頃、久しぶりに我が子に笑顔が戻った。
楽しい気持ちを思い出したかのように笑う我が子に 安堵した。
しかし、このあたりで 夫婦でのすれ違いはピークを迎えた。
たとえば、飲まず食わずに対しての捉え方。
「点滴あるかぎり、死ななくない?」という楽観的な私と、「食は命にかかわる」という夫。
たとえば、「非常事態」に対する捉え方。
「命にかかわるなら非常」という私と「我が子が入院している時点で非常」という夫。
ちょっと無理して頑張れる期間は、48時間が限界の私と、1ヶ月くらい行けちゃう夫。
夫婦のすれ違い
数日おきに付き添い交代をする。常にどちらかが我が子に付き添っている。それは すなはち入院している限り、2人でゆっくり話す時間は存在しないと言うことで。
体力的にも精神的にも削られ、思いやる優しさも 心の余裕も失われていく日々に、夫婦の溝は しっかりと生まれていった。
「子どものしんどい時くらい無理してでも頑張れない?」という夫と、「まずは自分を満たさないと 人に優しくできない。頼れえるものは全力で頼ろう」という私。
夫 → 私 のLINE
私 → 夫
子どもと二人きりになることが怖い。付き添っていて心の余裕を失って 心ない言葉をかけてしまうのが怖い。本人の意思に反して無理やり 力ずくで行動を制御してしまうのが怖い。
虐待はしてからでは防げない。
そんな夫婦のすれ違い。
そりゃ 世間的には 夫が正しいし、私もそうなりたい。
でも それができないから苦しんでいる。
という さなかで 私は病院に行くのが怖くなった。
予定していた付き添い交代に、行けなくなった。
「ごめん、体調 悪い。」
わかっていた。この体調不良は「病院に行こうとしたときだけ」に起こった。昔、新宿で働いていたとき、出勤前にだけ お腹が痛くなるようになったことがある。あの時と同じ、心因性の体調不良。
このままだと鬱になるやつ。解決策は その環境から離れること。
仕事なら、休職だとか、退職だとか、いろいろ選択肢があって選んでも そこまで非難されない。
でも 育児の場合、そういうわけにはいかない。
連日付き添う 夫にも限界がきている。
私は義母を呼ぶことにした。
私 → 夫
夫 → 私
実母との愛着形成に失敗し、サードプレイスによって救われてきた私は「頼り先がたくさんあること」を重要視してきた。
だから「愛着形成は 母親だけに限定されないし、母親だけにする方が危険」だとか「母親がつきっきりになることは、母親以外の人間との信頼関係を築くチャンスを奪っている」だとか、そんな主張を持っている。
でも 夫の言う通り、逃げているのも事実だと思う。
この時期「子育て向いてない」って100回くらい思った。
『母親になって後悔してる』という書籍を読んで、「ああ、私と同じようなことを感じている人がこんなにいる」と 必死に 心を落ち着けにもいった。
書籍について気になるかたは、こちらの対談記事が参考になるかも。
夫から 育児の当事者意識について 咎められる妻は、社会にどれだけいるのだろうか。もし、これが逆なら。育児しない父親なんて 世の中にありふれていて、こんなにも窮屈な想いをすることは なかっただろうに。
母親だからこそ 育児の主体性が求められる。
「母親なら これくらいできるでしょ」だとか「愛情を注いで当然」だとか「ママといるのが一番」だとか そんな圧力やプレッシャーが私を苦しめる。
夫婦だけの時代に戻りたいと思った。
「体調が悪い」といったときに、ただただ私の心配をしてくれる、そんな夫が恋しかった。「まりーちゃんはそのままでいいんだよ」といってくれた夫が恋しかった。
いつも通り ポストイットを使って、思っていることを夫にぶつけた。
時間をかけて話し合った。
夫婦での歩みよりのラインを探しにいった。
できるだけ平等に。半分ずつ付き添いに入る。
でも、自分の人生もできる限り止めない。
臨時対応の更新ではなく、長期的に持続可能な形で 対応していけるような体制をつくる。大事な仕事、行きたいイベント、外したくない予定をあらかじめ洗い出し、それを外してシフトを作る。
これで 夫婦で協力していける、と確認し思った矢先。
ICUへ(川崎病 再燃)
ICUへ行くことになった。
その日のツイートがこちら。
当初は「一般的に想像するやばいやつじゃない」から4泊5日で病棟に帰る予定だった。
だから、今しかない!と思って、夫婦でたくさんデートをした。
付き合う前の5回目のデートで行った吉本漫才劇場に行ったり、映画を見に行ったり。
6月18日くらいには 小児病棟に戻って、誕生日は 病棟で みんなとお祝いするはずだった。
のに。
この日から 今日まで我が子はずっと ICUにいて、麻酔で眠らされている。
エクモ装着(肺炎)
川崎病とは別に 発症していた肺炎が悪化し、血漿交換のための人工呼吸管理から、人工心肺(エクモ)へ切り替えることになった。
見込んでた治療をやっても なかなか熱がさがらず発疹も続くので、川崎病ではなく、なんらかの免疫不全や 感染症の疑いとのこと。
エクモについては「コロナの時の治療で役立った」って、耳にしたことあるなぁ程度だった。エクモは装着するだけで合併症リスクがあることを説明される。片方の首の血管を使ってしまうから、脳へ血が回らない可能性があるとか、血栓ができるリスクが高いとか、血をサラサラにする薬を使うから内出血したら止まらないとか、どれ一つとっても、起きてしまったら命に関わるとか。
2024年6月20日、初めて「命の危険」というワードが主治医の口から出てきた。今まで、「いうて死なんやろ」と 呑気に過ごしていた 私に衝撃が走った。
その日、趣味で仲良くなったはじめましてとの人とのアポがあった。ドタキャンするのもなと思って向かったけれど、待ち合わせ場所で ぼーっと座りながら 目の前で きゃっきゃ笑う親子を見て、泣きそうになった。
そんなメンタルの時だから、案の定 飲み過ぎちゃって、壮大に記憶は吹っ飛んだ。一緒にいた人によれば 私は号泣していたらしい。全然覚えていない。
嘔吐、号泣、痙攣、過呼吸、寒気、手足の痺れ…… 急性アル中の手前まで行ってたんじゃないか。死ななくてよかった。
二日酔いどころか、三日酔いになってしまって、面会に行けなくなって、夫にガツンと怒られた。あたり前だ。私が悪い。
私は「母親である」ということが ものすごく嫌だった。
子育て無理、向いてない、あの頃に戻りたい、って よく思っていた。
子に もしものことがあったら 私は悲しいんだろうかと ずっと疑問だった。
でもいざ、医者に「命の危険」って言われた時に、ちゃんと悲しかった。子どものこと大事だと思えている自分に 安心した。
その日から、いつ 病院から呼び出されてもいいように、禁酒を始めた。
飲みたくなる日は たくさん あったけれど、なんなら これを書いている今も 飲んでしまいたいけれど、今 飲むと またあの日のように 飲み過ぎてしまう。
自分のメンタルがよろしくないことがわかっているから、元気になるまでは酒は飲まないと決めている。
(実際、酒に飲まれた 6月20日から、今日まで1度も酒を飲んでいない)
離脱、抜管、回復。
その決意の甲斐(?) もあって、 6月20日に装着したエクモは 7月1日に離脱できることになった。とはいえ めっちゃ回復した、と言うよりは 目安期間を迎えたから、と言うのが近い。
エクモ離脱後は 気管切開をする予定で話が進む。けれど 順調に回復した結果、気管切開を回避することになった。
早く治すため、と言えど 喉に穴を開けるのか、とか、呼吸器とともに生活か、とか不安は多かったから、当時は この回復が嬉しかった。今思えば この時 念の為でも気管切開をしておけば…と思う。
2歳の我が子の誕生日は ICUで昏睡したまま迎えることになった。
「寝て起きたら 2歳になっているんだよ」
「病棟に戻ったら お祝いしようね」
「お家に戻ってからもみんなでお祝いしようね」
看護師さんに特別なことをしますか?と確認されるけど、「回復したら 後からでもできるので、いいです」と断る。
主治医の先生たちに「今日、誕生日なんです」と伝えたら、涙目になっていた。死だとか、悪化だとかと間近に生きているであろう存在の人が こうして我が子に想いを馳せてくれることに あたたかい気持ちになった。いい人たちだな、と思った。
3月に 空前のトトロブームを迎えた我が子の2歳の誕生日プレゼントとして購入した トトロのかわいい帽子と トトロのシャボン玉のセットは 未だ開封されずにいる。
7月11日に人工呼吸器の抜管に成功し、久しぶりに自力呼吸に戻った。
ここから麻酔を1ヶ月くらいかけて 徐々に抜いていって、意識が戻ったら 付き添い入院が再開できて、ご飯が食べられるようになったら退院できるかな、と言うところまで回復した。
ようやく、ここまできた、と安堵した。
毎日 麻酔の投与量が少しずつ減っていっていることにゴールの近づきを感じていた。付き添いできるようになるまでのカウントダウンが嬉しかった。
友人が贈ってくれた 手作りの絵本を必死で捉える 我が子の目。もう一度読んで、と言わんばかりの反応。あと少し、あと少し。
もう1ヶ月以上、寝たきりのまま。早く 我が子を抱っこしたいし、早くケラケラ笑う 我が子をみたい。
再挿管、再装着、悪化 (原因不明)
7月16日、呼吸状態が悪化した。
ふいにくる 病院からの着信。いい話をきくのは面会時だから 電話が来るのは悪い話。ここから また着信に怯える日々が始まった。
ちなみに1回だけ、21時くらいに電話があって「終わった…」と思ったら面会時間の緩和の連絡だったことがある。まじで心臓に悪いからやめてほしい。笑
そのときの 看護師さんは我々に 一番寄り添ってくれる人で、今では これを笑い話にできるくらいには 仲良くなった。
7月17日、再度エクモをつけることになった。
7月29日、もうすぐエクモを装着して2週間。
主治医が、「積極的な治療を取りやめて家族の時間を増やすこともできます」といった話をするようになってきた。
何をいっているんだろうと思った。少しでも生きる可能性があるなら 最後まで諦めずにいたい。2歳でまだうまく話せない。治療のことをどう思っているのかはわからない。
体への負担だとか、痛みだとかは 後から何回でも謝るから。諦めてしまったら 謝ることもできない。私たちは 生きのびることを諦めたくない。
「ずっと原因の究明にも努めていますが、未だわからないままで」
「もう できることは、し尽くしてしまっている状況です」
こんなに医療が進歩した現代社会で、もう 何もできないところまで来てしまったらしい。
せめてもの、との思いで、スマホに撮り溜めた動画を繋いでDVDを作り 枕元で再生する。1日の面会時間は30分。残りの23時間30分にも、私たち両親の声が 届くように。
詳しい友人が忙しいのに 出力の仕方について親身になって相談に乗ってくれた。感謝しかない。
医療の限界
8月10日、もうすぐエクモを装着して4週間。
7月に一度回復していただけに、その分落ち込みが大きい。これまでずっと裏切られてきたから、期待しないように、期待しないように、と過ごしていたけれど、それでもやっぱり 期待してしまっていた。
今回の悪化には 夫婦ともに 大きなダメージを受けた。
仕事を調整してもらっている夫と、主催企画を延期したり、中止したりしてシェアハウスとホームステイと民泊の最低限 必要な業務だけをこなす私。
医療でできる限界を迎えている今、非科学的な部分での アプローチを増やすようになった。
夫は、実家の宗教の祈りの時間を増やした。徳を積もうとゴミ拾いを積極的にするようになった。あとは答えのあることをしたいと大学受験の問題集をやっていたりする。
私も、積極的に助けられる人がいないかと徳積みチャンスを探すようになった。重そうな荷物を運ぶおばあちゃんに かわってあげたり、電車の子どもと遊んであげたり。
電車が止まってしまって 急遽カーシェアを借りることになった日には、タクシー列に並んだ人の中から 同じ方面に向かう人に声をかけ、 相乗りしてもらって3人救った。
居酒屋のキャッチだとか、ヒッチハイクでの日本一周だとかで 培った 声かけスキルが こんなところで役に立つなんて。
「命の恩人です」と言わんばかりに喜ぶ おばあちゃん。「こんな優しい人がいるんですね」と感激する 職場に向かう女性。「15時から病院で大事な説明があって、ほんと助かります」という 男性。
タクシーの長蛇の列を減らしたという貢献もあったな と思いつつ、でも乗りたいと思っている人は 他にもいて、私は 本当に 緊急度、優先度の高い人を救えたのだろうか、とも考えてしまった。乗せることができなかった あのおじさんは 今日の私たちみたいに 切羽詰まってたかもしれない。
そのほかは 漫画やアニメなどのコンテンツに没入したり(映画たくさん、宇宙兄弟、ガールズバンドクライなど)、肩書きのいらない新しいコミュニティに入り浸ったりして、なんとか のらりくらりと過ごしてきた。
行動力!実行力!が取り柄の私の アウトプット量は、このnoteに書いた通り、みじんこレベルに少なくなった。
1日は ものすごく長いんだけれど、4週間はあっというまで。
なんなら4ヶ月もあっという間。体感としては 正直まだ5-6月。
我々夫婦の「とき」は、子が入院した 春から止まってしまっている。
そして 無情にも進んでいく時間の中で、どうしても考えてしまう。
もし、あのタイミングで卒乳してなかったら。
もし、海外ひとり旅に行ってなかったら。
もし、私がもっと付き添いをしていたなら。
もし、もっと早く大腸炎に気付けていたら。
もし、血漿交換のためにICUに行かなかったら。
もし、ちょっと回復したタイミングで気管切開しておけたなら。
何か変わったのだろうか、と思うけれど、でも 今更どうにもできない。
それまでは 現実になってしまいそうな怖さがあって口に出さないようにしてきたけれど、8月に入って いよいよリアルになってきたのか、夫婦で「もし 我が子が死んだら」という話をすることが増えた。
我々が生きる理由を作るために あえて今、第二子の妊活をすべきなんじゃないか とか、「生まれ変わり」を信じるなら、妊活は 亡くなってからの方がいいんじゃないか、とか。
あんなに子育て向いてないって思ったのに、あんなにしんどいって思ったのに、子育てのない人生は 退屈だと思ってしまっている。
とりあえず バンジージャンプとか、スカイダイビングとか、そういうのをやりに行こうか とか、私は福井にある第二の実家に行こうと思う、とか
あとは、近隣の葬儀場のパンフレットを取り寄せたり、見積もりをもらったり。
8月8〜15日くらいは 南海トラフが起きるかも?とのことで、地震が起きた時のことも話した。いっそ全員が巻き込まれてしまったら諦めもつくのに、と考えてもしまった。
それまでは大丈夫だったのに、段々と 子どもを見るのがキツくなってきた。
道で手を繋いで喋りながら歩く親子をみては「我が子はこんなに大きくならないかもしれない」と涙ぐんだり、学習塾の 進学実績の看板を見ては、「高校にも行けないかもしれない」と思ったり。
それまで一部の人に限って Twitterの鍵アカウントのみで 伝えていた我が子の状況を、Instagramやfacebookのストーリーでも発信するようになった。
たくさんの連絡をいただいたけれど、できるだけ 我々夫婦のエネルギーを温存するために、あえて「みたよ」の意味をこめた いいねや スタンプの反応だけを返している。(みなさん、ありがとう。ごめんなさい)
あえて、エクモ離脱へ
8月13日、これでダメならこれ以上 手の施しよう無し、と判断される 離脱テストにて失敗。
もう あとは 待つだけか、と思った この日、新しい提案を受けた。
今までは トラブルや合併症が起きるまでエクモを装着し続けるしか道がなかったところ「あえて外す」という提案。
今問題になっているのは CO2の濃度が高いと言うことで、薬によってpHをコントロールすることで 持ち堪えられる可能性があるのではないか?とのこと。
その結果、気管切開ができるところまで持ち堪えられたら、呼吸設定で有利かつ、麻酔を減らせるようになり、回復の道が開かれる、と。
もちろん その分リスクはある。呼吸状態が悪くなって その日のうちに、と言うことも十分ありえる。
でも、主治医との話し合いの結果、その提案を受けることにした。
生き延びる可能性は 1mmでも高い方がいい。
8月19日に、「エクモ離脱」を行うことになった。
しかし、当日の朝、電話がなった。
「呼吸状態の悪化により、今日は中止にします。リスクが増加していて、その日のうちに最悪の事態が訪れる可能性もある。あらためて 直接 話した上で今後の方針を決めたい」と。
面談室で 主治医と話す。
エクモを続けていれば、合併症がトラブルが起きない限り あと数週間 命が続くかもしれない。けれど もう回復する見込みはない。
ならば 死期を早める可能性があったとしても、生き延びる可能性が少しでも高い方にかけたい。私たちの想いは最後まで変わらない。
主治医からの「本当にやりますか?」の問いにYESと答えた。
もう何度、手術や処置の説明を受け、もう何枚の同意書を書いたことか。何かあったときのために、と保管している検査結果や説明書や同意書は束になって、入院生活の長さと 症状の重さを訴えてくる。
(ちなみに入院先の病院は 事実婚に対して寛容で、本来 我が子の 親権を持っておらず法定代理人ではない 私の署名でも治療を進めてくれる。これは病院の判断によるから ありがたい)
心臓が止まった時の蘇生をどこまでするかの確認もされた。
一般的目安としては 20-30分、家から病院までだと 間に合わない。近くに宿を取ることにした。
今日、死ぬかもしれない
8月21日の午後、エクモの離脱をする。
そのまま呼吸ができなくなってしまうかもしれないし、血中CO2濃度が高くなって心機能に影響を及ぼすかもしれない。その日はどうにか乗り切っても 数日以内に命を落とす可能性だってある。
はたまた、なんとか 耐え切って 回復へのスタートラインに向かうかもしれない。最後まで諦めてはいない。
でも、同時に 最悪の覚悟もしている。
今日、12時に 離脱前最後の面会をする。
そこで 私たちは 何を思うのか。子に何を話すのか。
行きたいとこはたくさんある。
やりたいことはたくさんある。
ゾウを見に 京都の動物園に行きたいね、だとか
たくさんの飛行機を見に、豊中だったかの河川敷に行きたいね、だとか
海でぱちゃぱちゃ泳ぐ我が子を見たいし、もうちょっと大きくなったら シュノーケルやダイビングの世界も教えてあげたい。
ダンスが好きな我が子に ダンス教室に通わせてあげたいし、我が家にホームステイしてくれた人たちに会いに 世界各国を飛び回りたい。
百人一首の勝負もしたいし、キャッチボールもしたい。
でも、まずは腰が壊れるくらい抱っこをしたいし、抱き合いながら添い寝をしたい。
人生のやりたいことリストを見返してみても「我が子ありき」のことばかりが並んでいる。
今さら 我が子なしの人生になんて戻れる気がしない。
私は 母親になって後悔してるのだろうか、と自問自答の日々を送っていたけれど、我が子を授かったことには全く後悔していない。
むしろ、いてくれないと困る。
頼むよ。
じゃぁ、いってきます。
夫サイドのnoteはこちら
https://note.com/saryu126/n/nf00a177b1e10
時間があったら また書き足します。
報告あるまでは 私にも 夫にも 黒田にも、どうか連絡せずに待っていてほしいです。