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昔の日本人は勝手に元号を作っていた件

▼その史実を知っているだけで、「今」の景色が少し変わる。そんな史実がある。

▼前号では、新元号が「令和」になると予想を的中させた人が愛知県にいて、その人は〈ルールを守る日本になってほしいとの思いで法令順守の「令」、平和から「和」を取った〉という話を紹介した。

▼今号は、昔の日本人はけっこう勝手に元号をつくっていた話。2019年4月3日付の毎日新聞から。東京大学教授の加藤陽子氏(日本近代史)のインタビュー。適宜改行。

〈近世期、飢饉(ききん)や災害が続くと改元を望む落首(落書き)が現れ、元号への批判もあった。徳川三代将軍に家光が就いた後の元号、寛永について人々は、「」の字を分解して「ウサ見ること永シ」(悪い時代が永びく)などと評した。要は、新元号への人々の期待が高かったからこそ、批判もされたわけだ。

 「元号=天皇のもの」ではない発想さえあった。室町時代の1490年ごろ、関東以北では「福徳」という、なんともめでたい「私年号」が使用されていた。飢饉や戦乱が続き、「そろそろ改元があってほしい」「徳政があってほしい」との期待から私年号が広がった。

続いて、反政府という文脈で改元が準備された近代の例も見ておこう。戊辰戦争で新政府と対峙(たいじ)した東北地方の諸藩は「大政」という元号に改元する構想を持っていた。

また、1884年の一大農民蜂起として知られる秩父事件でも「自由自治」元年が唱えられていた。〉

▼とても面白い、教科書では教えない歴史だ。このインタビュー記事を読んで、筆者はマキノ雅弘監督の映画「恋山彦」を思い出した。

▼加藤氏は、その後の元号の歴史にも簡単に触れている。

明治の政治指導者たちは、一世一元の制度をつくったが、特段、天皇の権威を高める意図はなかったのだが、戦争へ向かって一世一元と天皇の政治的権威とが一体化していった。

加藤氏はこの史実に言及したうえで、〈よって、アジアの人々や自国民を存亡の危機に陥れた戦争後、元号廃止論が出てきたのは自然な流れだったろう。〉と論じる。

▼しかし、1979年に元号法ができる。お膳立てをしたのは、今よく知られるようになった「日本会議」に連なる人々だ。加藤氏の結論は鋭い。

元号法には、「昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする」という付則がついている。この新しい法律によって事態が一変した。

〈1926年に始まった昭和という元号が、1979年になって、さかのぼって正統化されたのだ。その意味の重さを思えば、元号法制化が大きな歴史の分水嶺だったと、今になって理解できる。

元号法が、旧憲法下で定められた昭和をたやすく再定義し得たのなら、同法自体も、天皇が譲位する時代にふさわしく、今後、改正できるはずだ。〉

▼ラストの一文の切れ味の鋭さに唸ってしまった。本物の学問とは、こういうことをいうのではないだろうか、と思った。権威の「正統化」というものは、「伝統」やら、「歴史の重み」やらとは関係なく、実に便利に出来上がるものなのだ。だから、権威はつくりかえることができる。

▼筆者が面白いと思ったのは、昔の「勝手な元号」の話だ。「元号=天皇のもの」という「常識」もまた、後からつくられたものであることがわかる。

マキノ雅弘の「恋山彦」の場合は、相手は天皇ではなく徳川だが、阪東妻三郎演じる主人公が、徳川の政治的権威を完全に相対化しているところが面白い。加藤氏が紹介してくれた史実のほかにも、さまざまな元号があったのではないかと想像がふくらむ。

マキノ作品には「日本の近代」や、今の日本社会に失われた「情」について考えさせられる映画が多いが、それはまた別のお話。

(2019年5月21日)

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