「観光のための文化」から「文化のための観光」へ(4) ユネスコサイド
▼「ユネスコサイド」という物騒(ぶっそう)な言葉がある。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が悪い、というわけではない。
〈最近のヨーロッパや東南アジアでは、ユネスコの世界遺産登録を受けて、観光業で汚染された場所を「ユネスコサイド」という言い回しで表現するようになっています。〉(『観光亡国論』154頁)
▼本書では中国の雲南省にある「麗江(リージャン)」という町や、ミャンマーの「バガン遺跡」の例が挙げられている。
「ユネスコサイド」は4段階で進む。(156頁)
1、世界遺産に登録される、あるいは登録運動が起こる。
2、観光客が押し寄せて遺産をゆっくり味わえなくなる。
3、周辺に店や宿泊施設が乱立して景観がダメになる。
4、登録地の本来の価値が変質する。
〈的確なコントロールを怠れば、途端に観光客目当てのゲストハウス、ホテル、店が立ち並ぶようになります。そうなると、昔からある景観や文化的環境が薄れてしまいます。そして、観光スポットだけでなく、住民が大切にしてきた場所まで、ネガティブに発信されてしまいかねません。
そのプロセスは、町に観光客が増えることで、昔からあった店がなくなり、金儲けをあてこんで遠くからやってきた土産物屋だらけになる「稚拙な」商店街と同じです。〉(同頁)
「麗江(リージャン)」や「バガン遺跡」がどうなってしまったのか知りたい人は、本書を手に取ってみてください。
▼この「ユネスコサイド」は、日本も無縁ではない。読売新聞の2018年6月25日付の記事が要約されている。
〈富岡製糸場は世界遺産に登録された2014年、年間133万7720人もの来場者がありましたが、2年後の16年度にはそこから4割減少し、17年にはついに半数以下に落ち込んでしまっています。〉(157頁)
富岡製糸場は、修復と管理に、10年で100億円かかるそうだ。明らかに採算がとれない。
▼この話の後に、〈観光は文化を強くする〉という小見出しがある。
オーストリアのウィーン国立歌劇場、タイの伝統舞踊などは、「観光が文化を強くした」好例である。
▼アレックス・カー氏の分析の鋭さは、こうした観光論を「国家論」として位置づけるところにある。
カー氏の目で見ると、日本はつい最近まで「開国していなかった」のだ。
〈日本は江戸時代末期に「開国」されたものの、本当の意味での国際化はなかなか達成されなかった、という事情があります。現在のインバウンド増加でこれまであまり見かけなかった国からも観光客がやってくるようになり、ようやく本当の開国が始まった、というのが現状です。〉(161頁)
今、そしてこれから日本各地の観光地で起こることは、単純な話で、〈観光がプラスとマイナスのどちらに作用するかは、結局、市民が自分たちの文化をどれだけ理解し、誇りを持っているかにかかってきます。〉(162頁)
ここでカー氏が使っている「誇り」は、「日本は素晴らしい国だ! 他の国と比べて。だから誇りに思う」と喚(わめ)き、他国や他者を「下」に見るために使われている「誇り」とは、同じ言葉なのに、まるで違う中身を持っている。
本気で日本に誇りを持って、日本の文化は素晴らしいと思っているのなら、スマホの中だけの「反射」ではなく、本気で考えるべき、他人事では済ませない問題がある。いわゆる「ゼロドルツアー」だ。(つづく)
(2019年7月16日)