【読書往来】柿崎明二『検証 安倍イズム』

▼共同通信編集委員である柿崎明二氏の『検証 安倍イズム――胎動する新国家主義』(岩波新書、2015年)は、安倍晋三総理大臣の「父権主義」(パターナリズム)と「天皇観」についての指摘が興味深い。

▼まず「父権主義」について、〈「愛国心は両親に対する愛に似ている」擬人化される国家〉という小見出しの文章から(162頁ー164頁)。

国民と対立はせず、常に守っている存在という、きわめて肯定的な国家観の発露としての政策が、一章で詳述した主に現役世代を対象にした「女性の活躍」、労働者全体に関わる賃金引き上げ、全国民に影響する物価目標、そして約70年ぶり、戦後初の人口目標設定などである。/さらに憲法の解釈変更による集団的自衛権の行使容認、それを踏まえた安全保障体制の整備をはじめとする防衛力強化、教育基本法改正を発端とする教育改革、そして「悲願」である憲法改正は「個人の自由を担保する」ために「国家」を強くするためのもの――という論理構成で安倍の中では一貫していると思われる。このため、「戦争をするために集団的自衛権を行使しようとしている」「教育改革で国民を国家に奉仕する人間にしようとしている」「憲法を改正して個人の自由を制限しようとしている」などの懸念や批判は、完全なすれ違いに終わる可能性が高い。

▼この箇所を読むと、なぜここ数年の国会論戦が「蛙の面に小便」のような状況になっているのかに理会できる。総理大臣と、質問する議員とで、国家観そのものが異なるから、完全なすれ違いに終わるのだ。

〈さらに安倍に特徴的なのは、親をモデルにした国家の擬人化だ。2006年6月8日の衆院教育基本法に関する特別委員会で、政治学者の言葉を紹介する形で次のように答弁している。/「愛国心というのは両親に対する愛に似ているんではないか、父親の人生にはいろいろなこともあったけれども、やはりいとおしいと思う。こんなに自分を包んでくれた、愛してくれた。随分厳しい仕事も一生懸命頑張って家族を支えてくれたんだな。そんなことを自分が知ることによって、自分は父親の子供であるということを誇らしく思うし、そして自分のまさに帰属するものを確認することができる」/「しかし、長じてだんだん、父親にもこんな嫌な面があったということを知るようになるわけでありますが、しかし、最初はやはり、そういう素朴に父親をいとおしく思うということが自分の人格形成には大切ではないかな」/この場合の国民は青年層ぐらいまでを想定していると思われるが、国家と国民、個人の関係が「父と子」の関係にあるとすれば、国家はますます肯定すべきものととらえられ、国家も国民、個人のために幅広い領域に関わっていくことになる。こうした広い意味の父権主義(パターナリズム)が、安倍の国家観の基層を形作っているようだ。

▼次に安倍総理の天皇観だが、祖父・岸信介氏との対比が面白い。

〈安倍は、政治として守るべきものに「自立自助を基本に、何かあれば支え合う社会」や「息をのむほど美しい棚田の風景、伝統ある文化」などを繰り返し挙げるが、それらはいずれも情緒的なものだ。すでに触れたが、祖父の岸が「自由」を挙げるのを常としていたのとは趣を異にしている。/天皇制に対する岸との差異/また、天皇制についても安倍は『新しい国へ』の中で「日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られてきた長大なタペストリーだといった。日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である」と述べている。岸が『岸信介証言録』の中で、「天皇制を絶対的とする考え方についてはいかがですか」と問われて「それはありません」と簡潔に答えているのとはやはり対照的だ。〉(197頁)

本書は、安倍政権の行く末を考えるための参考書である。柿崎氏の指摘を読むと、まさに今、日本国民の目の前で起き続けている「完全なすれ違い」の理由がよくわかる。

そして、安倍総理が持っている天皇観は、自身のパターナリズム=父権主義と交差して、何らかの形で目に見えるようになった時、日本のナショナリズムの排外主義的暴発を、天皇の存在に結びつけてしまう危険がある。

▼パターナリズム=父権主義について考える際、ちょうどいいコラムが日経に載っていた。愛媛県立高校59校すべてが、18歳選挙権導入に対する策として、生徒たちの校外での政治活動を学校に届け出るよう校則で義務づけたという呆(あき)れたニュースについて。主導したのは愛媛県教育委員会である。

〈日経「春秋」2016/3/20付/パターナリズムという言葉がある。家父長主義、父権主義などと訳されていて、ラテン語で「父」をさす「パテル」が語源だという。昔の謹厳なお父さんよろしく、強い立場の者が弱い立場の者を保護しつつ統制する態度のことだ。そういう関係が有効な場面もあろう。▼しかし相手がどんなに閉口しても、本人のためだと信じ込むのがパターナリズムの困ったところだ。

▼このコラム記者は〈県教委は各校に、校則の変更例を載せた文書を配っただけだという。すると59の高校が次から次へと……という話〉と続けている。県教委は「文書を配っただけ」で、指示したつもりはない。いっぽうの高校は県教委の文書に従っただけで、自発的に義務付けたわけではない。愛媛県の高校で起きたこの出来事は、安倍政権以降、強まるパターナリズムの好例であるとともに、「公文書原理主義」(=この場合の公文書は愛媛県教育委員会の文書)の便利さや危険が浮き彫りになった事例ともいえる。

(2016年3月22日 更新)

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