「新聞」は「旧聞」が大切な件 靖国神社の異常事態
▼定期的に「新聞」は、じつは「旧聞」が大事だ、ということを書いているが、今回は靖国神社について。
2019年8月13日に共同通信が配信した記事。「新聞」を知るには「旧聞」が必要であることがよくわかる記事だ。適宜改行。
〈宮内庁、靖国の陛下参拝要請断る 創立150年で昨秋〉
〈靖国神社が昨秋、当時の天皇陛下(現上皇さま)に2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める極めて異例の「行幸請願(ぎょうこうせいがん)」を宮内庁に行い、断られていたことが13日、靖国神社や宮内庁への取材で分かった。
靖国側は再要請しない方針で、天皇が参拝した創立50年、100年に続く節目での参拝は行われず、不参拝がさらに続く見通しだ。
天皇の参拝は創立から50年ごとの節目以外でも行われていたが、1975年の昭和天皇が最後。78年のA級戦犯合祀が「不参拝」の契機となったことが側近のメモなどで明らかになっている。〉
▼第1段落と第2段落が「新聞」。第3段落が「旧聞」にあたる。
この記事と合せて配信された解説記事が重要だ。
▼編集委員の柿崎明二氏は、〈昨年、靖国トップの宮司だった小堀邦夫氏が都内会議で「陛下が慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」「陛下は靖国神社をつぶそうとしている」と在位中の上皇さま批判と受け取れる発言をし、責任を取って退任した。〉と指摘している。
まず、これが重要。
▼あと、別の解説記事から、靖国神社の位置づけについて。
〈戦没者らを慰霊、顕彰する中心はあくまで天皇で、宮司らの役割は「代行」にすぎないというのが靖国の立場だ。〉
〈昭和時代の含め1975年を最後に天皇参拝が途絶えているのはなぜか。背景の一つにはA級戦犯14人の合祀(ごうし)がある。
主導したのは、78年7月に宮司に就任した故松平永芳氏だった。当時の中堅幹部故馬場久夫氏によると、松平氏は就任直後の会議でA級戦犯合祀が「宮司預かり」になっていて宙に浮いているのを知り激怒、合祀手続きを急ぐよう部下に指示し、この年の10月実現にこぎつけた。
A級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)について「戦勝国による東京裁判を認めるわけにはいかない」というのが持論だった。14人は「昭和殉難(じゅんなん)者」として祭られた。〉
▼この松平氏の行動が、天皇参拝を途絶えさせた主な原因である。ということも、もはや知らない人が多いと思う。だから、「旧聞」が大事だ。
▼以下の記事は、日本経済新聞がスクープしたことで有名になった「富田メモ」の解説である。
〈2006年に公になった故富田朝彦元宮内庁長官の88年4月のメモによると、昭和天皇がA級戦犯合祀に触れ「松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」と漏らし「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と不快感を示していた。〉
▼なお、靖国神社はいったん合祀したA級戦犯を分祀することは、〈神道のあり方を踏まえ「認められない」と主張している〉のが現状。
つまり、とても単純な話だ。整理すると、
「1978年、靖国神社がA級戦犯を合祀した」
「だから昭和天皇は靖国参拝をやめた」
「靖国神社はA級戦犯分祀をするつもりはない」
「だから、天皇は今後も靖国参拝を行わないだろう」←今ここ
ということだ。靖国神社が宮内庁に対して、極めて異例の「行幸請願(ぎょうこうせいがん)」を行い、断られたわけだが、なぜ靖国神社が行幸請願を行なったのか、ちょっとよくわからない。
上記のように整理すれば小学生の高学年でもわかることだ。原理的には、現下の状況で天皇が参拝するはずがないのはわかりきっているのに、「参拝してください」とお願いする。これもまた、最近SNSで目立っている「感情の噴出」の一つの表現なのかもしれない。
▼「靖国で会おう」と約束して死んでいった人々と会うために、靖国神社に行く。これは遺族や戦友にとって当然の話だ。死者との約束は守らねばならない。その大切な場所に、肝心要(かんじんかなめ)の天皇本人が来れないような状況にしたのは、いったい誰なのだろう。
なぜ、靖国神社の人々は、天皇の気持ちを「忖度(そんたく)」しないのだろう。
▼靖国神社にとっては異常事態が続いているが、靖国神社の当事者のなかには、「もしかしたら、靖国神社が日本社会の中で異常な存在になっているのではないか。だから天皇陛下は参拝されないのではないか」と考える人もいると思う。
(2019年8月16日)