season7-3 黒影紳士 〜「手向菊の水光線」〜🎩第五章 見知らぬ花
第五章 見知らぬ花
「……そんな、遥々こんなに遠い異国の地に来たんですよ?!」
式田 暁春は従姉妹の揺波を何とか彼方此方から資金を用立て、スイスにいた。
日本で揺波の容態をずっと匙も飛ばさず、対処療法で診てくれていた田沼 嘉樹(たぬま よしき)の紹介状も持っている。
田沼 嘉樹の紹介状を見たスイスの医師、ハロイド•デュランテ・ガーベルは即座に揺波を最先端医療機器の精密検査へと回した。
到着時点で痛みからか気絶しており、数度頬を叩いたり、氷を顔に付けないと検査さえままならない状態である。
最初はデュランテ医師が仕方無くしていたが、其れを見ているのが悔しい気がして……虚しい気がして、暁春はデュランテ医師の手を睨み払い除けると、自分で代わりにした。
今まで守って来たと言う自負心に傷が付くと言ったところだろうか。
揺波が頼んだ訳では無い。他にいなくて勝手に身に付いた気持ちなのだろう。
デュランテ医師はそんな暁春を不思議そうに見詰めた。
環境的に他に居ないとは言え、揺波を守ることがまるで暁春の生き甲斐になっている様に見えたからだ。
「……守ると言う気持ちは尊いものだと思います。けれど、暁春君には暁春君の人生があるのでは無いのですか?こんなに苦しんでも尚、闘っている揺波さんにもまた人生が別にある様に……」
何故、そんな事をデュランテ医師が言ったのか、暁春にはその時分からなっかった。
けれど、暁春の知らないところで、もう時の歯車は残酷に動き始めていたのだ。
歯車と歯車の重なった間に、少しずつ挟まれて行く様に……。
そんな事も気付かなかった暁春はその時の言葉に、ふと揺波と出逢わなかったもう一つの世界線の己の人生を考えたりもした。
揺波が痛みに苦しみ呻り乍ら検査を数日受ける間、其れを考えてしまえる程の有り余った時間と、何より健康な身体があった。
……何も代われやしない。
半分でも其の痛みが分け合えるのであれば、それならば喜んで引き受けよう。
けれどそんな考えは、きっと甘いに違いない。現実的では無いと言う以外に、僕は其の痛みを全く知らないのだから。
どれ程近くにいて君を見ていても、何一つ知る事は出来なかった。
だから……思える。……無責任だ……僕は。
――――――――
デュランテ医師は田沼 嘉樹医師からの紹介状に目を通す。
鋭利なメスの様なペパーナイフに、赤い蝋の封印が削り取られ、点々と砕け残る。
デュランテ医師は其れを冷めた目で見詰め、さっと漆黒の布切れで隠す様に拭い去るのだ。
心にある己は医師だと言う誇りと、相反して共に付いてくる血液の様な赤に吐き気さえする。
血液は大丈夫でも、他の「赤」にも過剰に敏感になる己が嫌いだった。
日本から態々来たと言うだけで、紹介状の内容には気付いていた。
この国で認められた、「最後の救い」を求める物に違いない。……それは、
……「安楽死」
一応に精密検査をするだけして原因を探り、ほんの僅かでも患者が楽になる方法があるならば、決行はしない。
どんな医者でもきっとそうだ。
医者になろうと思った時、最低限こう思っただろう。
……誰かを救える人間に成りたい。
ずっと「安楽死」を受け入れ乍らも考えていた。
患者は苦しみの余り死を叫ぶ。
だが、どんな人生の苦しみでも其れは同じ。
死にたくなる程苦しい生き様も此の世にはある。
医療さえ受けられない。……そんな楽には死ねない戦地もある。
若き日に沢山の人を救えればと、希望の様な物を持って世界を回った。腕が幾ら良くなっても、其れは救え無かった命や変えられなかった苦痛の上に、這いつくばって出来上がったものだ。
祖国に戻り、名医と呼ばれても「人間」としか患者の事も己の事も思えなかった。
余りにも沢山の悲しみや苦しみを見続けたが為に、生物学上の「人間」としか感じない、無気力な心に支配されていたのだ。
其れから医師が通うカウンセリングを受け、少しずつこの安楽死と言う制度も受け入れられて来た。
……だけど……
ずっと誰かに聞きたかった。
……じゃあ何故、望まない死の直前に願うのですか?
たった一筋の涙をこの世に残し、
「……もっと生きていたかった」
「……次は生きられる世界で……」
……そう、「生」を語るのは、何故ですか……。
――――――
検査の途中の事だ。
検査中に連れ添いの暁春の様子を見に行ったが、窓の外を茫然と眺めるだけだった。
その視線の先には国境に流れる川がある。
あの川を見る度に想う。
永世中立国である此の国に、あの川を必死で渡ろうとした兵士の亡骸は……今もあの川と共にあるのではないか。
沈んだ亡骸からは……其れを見渡せる位置にあるこの診療所が如何見えているのだろう。
命を消す……この場所を。
私は目を細めて暁春の背中を見ていた。
何故、暁春を連き添い人として寄越したのかと、沼田 嘉樹医師に電話で思わず、憤慨し聞いた。
余りにも安楽死を知るには、若くして脆弱にしか見えなかったからだ。
知れば傷付き混乱するだけの曖昧な若さに、幾ら経験や教えとは言え、安楽死の事実を理解するには早過ぎる気がした。
……人は簡単に壊れる。
医者だから分かる。
沼田 嘉樹医師の人を見る目が此処迄無かったとは……そう、信じていたからこそ不愉快に思ったのだ。
同じ医者ならば、分かった筈なのに……と。
だが、沼田 嘉樹はこう答えた。
「……他に……付き添える人間がいなかった。誰一人も……」
そう、無念に声を震わせ言ったのだ。
こんな時……私は如何しようもない無力さを感じる。
私だけでは無い。沼田 嘉樹医師もきっと同じだ。
看取る者もいない死……。
送る友人すらいない……此の世に生きながらに、病が故に忘れられ、存在を失って行く命。
病に手を尽くす事は出来ても、人が病で失った人生を治せる訳では無いのだ。
其れは我々が驕らない様に、そう在るのかも知れない。
そう思わなくては……死を見て、命を救おう等と言う所業は出来ようも無い。
――――――
「暁春君……ちょっと話が……」
検査してもやはり原因が分からず、痛みを和らげる事も出来ないと分かり、デュランテ医師は暁春を呼んだ。
そして彼に、安楽死の提案があった事を告げる。
「……そんなっ!……此処に来れば少しは良くなると思って!」
暁春はやはり未だ若い。怒りを露わに、デュランテ医師にそう言った。
こんな大事な話の時は、大人ならば怒りや悲しみがあっても、先ずは詳しく話を聞くし、何故そんな経緯になったのかと問うだろう。
感情が先走るのは、未だ理解するには早いと言う事なのだ。
デュランテ医師は一呼吸置いて、沼田 嘉樹医師からの紹介状と、経緯を話した。
心苦しい会話である。日本では安楽死は出来ない。詰まり、安楽死についての理解も浅い。
此の文化の違いが、二人の間に会話の後の静けさを呼ぶ。
デュランテ医師は揺波にも、打診しなければならない。
沼田 嘉樹医師が先に話していれば……。
暁春がこんなに高い費用を用立て此の国に来させる事は無かっただろう。
暁春が軈て沼田 嘉樹医師に憤慨し、恨むのも大した時間を要さなかった。
暁春は己が必死になって沼田 嘉樹医師の言う通りにしなければ、愛していたであろう揺波を殺す事はなかったのだから。
安楽死と言えば言葉の響きは良い。まるで救いにも聞こえる。けれど、其れを行うデュランテ医師には、己が死刑囚の死刑執行しているのと変わらない気分になるのだ。
本当は苦しむ患者を前に、涙を流してみっともない姿だろうと、声を大にして叫びたかった。
……生きたいと言ってくれ!
と。揺波は痛みに耐え額に汗を掻きながらも、デュランテの話を黙って聞いていた。
蹲りかけた体勢から「安楽死」の言葉を聞いた時、目を一瞬輝かせデュランテ医師を見る。
デュランテ医師は目を逸らした。
……私は天使でも神でも救いでも無い……。
そう己に言い聞かせたからだ。
「せめてもう少し……生きて欲しかった」
そう言って、デュランテ医師は部屋を出た。
――――――
話はトントン拍子に進んでいるかと思われた。
然し、此処で大きな問題が生じたのだ。
安楽死を行う当日の朝、デュランテ医師が揺波の部屋を訪れると、ベッドは蛻(もぬけ)の殻(※蝉や蛇の抜け殻に例えた言葉)だった。
デュランテ医師は直ぐに気付く。
暁春が揺波を連れて日本へ帰ったのだと。揺波は既に安楽死を承諾していた。
躍起になって追い掛けるなんて野暮な真似はしない。
揺波はもう独りでは動けない身体であったし、支えて日本までたった独り暁春が連れて帰ったならば、どれだけ其れが困難で大変な事か……デュランテ医師には想像出来たからだ。
其処までして愛した人に少しでも生きて欲しいならば、止める理由なんて無い。
殺さなくて済んだのだから、デュランテ医師には純粋で未だ若くとも勇敢な暁春に救われた様な気分になったのだ。
最後の砦、最後の救いの心を救ったのが、未熟な愛であった。
その後を心配して、デュランテ医師は数回に渡り、暁春と手紙で遣り取りをし、揺波の状態や痛みの進行をある程度把握出来たのだ。
然し、其れは突然やって来た。
来なければ良いと願っていた暁春からの一本の電話だった。
「揺波が……揺波がっ!沼田先生じゃ駄目なんだ!僕は未だ諦めたくは無い……勝手だと分かっていても、揺波を殺したくは無いんだ!」
取り乱した暁春はそんな事を言う。
デュランテ医師は一度静かに瞼を閉じ、ゆっくり開いた。
「……手紙で近いとは思っていました。恐らくもう長くは無い。私が診ましょう。」
死期が近いと気付いていた。然し手紙だった事から、確かでは無かった。……が、此の日の電話で、其れが明白になった訳だ。
デュランテ医師は皮のトランクに必要最低限の医療機器と数日分の着替え、パスポートを詰め、トレンチコートを羽織った。
……死神に成る覚悟を決めて……。
――――――
「式田 暁春……か。海外で診て貰った医師がハロイド•デュランテ・ガーベル。デュランテ医師と呼ばれている……か」
黒影は本機と同期させてあるタブレットPCを観て呟く。
「……ん?」
其れを聞いた風柳はそんな声を上げ、黒影を白い目でゆっくりジロリと見た。
「何ですか?」
黒影は其の視線に気付き風柳に聞く。
「先輩……当たり前だと思っている常識が、他から見たら非常識って事があるでしょう?大事な常識忘れていますよ」
と、サダノブは風柳が何を言いたいのか、更には黒影が何をしているのか知っているので言った。
「……何の事だ、サダノブまで。はっきり言えよ」
黒影はタブレットPCを置き、珈琲に口を付けた。
「あ!やっぱり……」
風柳は額に手の平を置く。
「だから、警察の情報を剰え刑事の風柳さんの前で、堂々とハッキングしている事ですよ」
と、言えない程呆れている風柳の代わりに、サダノブが黒影に言って教える。
「はぁ?……何が問題なんだ。此方は探偵だし、民間だぞ。そもそも其の民間の一探偵社ご、と、き、にだな、意図も簡単に擦り抜けて見える様なセキュリティ体制の警察が悪い。更に言えば今回は警察の協力要請で此方は動いていると言うのに、情報を上げるのが遅い!だから確認確認の書類事務じゃ遅いのだよ。良い加減古い体質を変えて頂きたいな。……僕は手間を省いてやっているんだ。郵送代やら書類作成費が浮いただろう?依頼で貰ってるのだから、他の税金は極力頂かない様に、ひ、か、え、め、にやっているだけだ」
と、黒影はツンとして窓の外に見える、隣の神社の綺麗な花を見詰めた。
……季節外れの菊が何種類か咲いている。
やっと温かくなり始めた春一番の強い風にも折れる事も、花弁を散らす事も無くただ揺れるだけであった。
其れは祀ってある鳳凰にお供えする菊で、神主の滝田さんが品種を変えたり、一生懸命になって、一年中絶やさぬ様育てている。
勿論、滝田さんは本物の鳳凰が其れを年がら年中、此の窓から眺めているなんて知らない。
菊の上に横に広がる低めの品種の梅が咲いている。
ビル風を抜けゆく春風に、花弁が美しく紅白の祝福を舞い上げ空へ消えた。
枝垂れ桜がそろそろ咲くだろうか……そんな事を黒影はのんびりと考えている。
犯人は……もう、見えているからだ。
だが、こんなにも情緒に身を任せるには理由が在った。
犯人が……自害するかも知れない。
早く捕まえ、自分の言葉で説得しなくては……。
何時も思う。
捕まえられるか如何かより、納得して捕まるか捕まらないかの方が大事じゃないかと。
納得しなければ……また刑期を終え再犯するだけだ。
刑期中に理解する者もいる。でも、出来る限り……自分の言葉で……特に自害まで考える犯人を説得出来たならばと、思わずにはいられなかった。
「……其の、デュランテ医師にアポイントを取ってくれないか」
黒影は窓の外を眺めたまま、サダノブに指示する。
「だから、其の前に警察の情報をですねぇ……」
と、サダノブは風柳に何か謝罪の一つでも言うべきだと、黒影に言いたい様だった。
「だから何だ。だから探偵になったんだ、僕は。風柳さんに当たっている訳じゃあないんですよ。急いでいるんです。菊が沈んでからでは遅い……。揺蕩う内に、掬ってやらなければ……」
黒影はそう言う。
風柳は其れを聞いて、
「黒影が必要だったと言うのなら仕方無い」
と、諦め新聞を広げて番茶を啜った。
「すみませんねぇ、何時も。此方の職務上の都合なのですよ。風柳さんは悪くない。……さっさと、サダノブは連絡!」
黒影はやはり少し言い過ぎたのではないかとそういったが、サダノブにはその分八つ当たりのとばっちりが向かう。
「……何で俺なんですか!……あ……あれ?」
サダノブは黒影に注意するも、変な声を上げる。
「何だ、其の間抜け声は?」
黒影は理解出来ずに聞いた。
「留守電なんですよ。休診ですって。……えっと……ん?」
サダノブは言葉が其処迄しか分からなかったらしく、其れに気付いた黒影はスマホをサダノブから取り上げ聞いた。
「成る程ね。暫くは家の用事で不在の様だ。急患は他を当たる様に、何箇所か近くの診療所や病院を紹介している。風柳さん、デュランテ医師は日本にいる。サダノブ、入国記録を当たれ。僕は、衛星画像から式田 暁春の家を上空から探す。白雪!」
黒影は其処でハッとして、息を抜く。
つい、次々と指示を出したり動き出した時は、血が騒いで指揮を上げる話し方……詰まり、少しハキハキし過ぎてキツい語尾になりがちなのだ。
其の方が無線で聴こえ易いし、指示を受けた方も簡潔でハッキリした声程動き易い。
だが、其の調子で白雪を呼んだものだから、バツが悪くなってしまったのだ。
「……なぁに、元気そうに浮かれて。……気にしないの。ほら、大事なコートと帽子、乾かしておいたわよ」
白雪はそう言ってにっこり微笑み、席から立った黒影に踵を上げて帽子を被せる。
黒影は、
「おっと……」
バランスを崩しそうな白雪の腰に手を当て支えてやると、少しだけ体制を低くし、白雪が帽子を被らせ易い様にした。
コートを手渡されると、満足そうにバサっと回し広げ袖を通した。
「俺の車で良いな。黒影にあのパトランプをひょいひょい出されると、こっちにクレームが来るんだ」
そう、風柳は出掛ける事に気付いて言った。
黒影はささっとタブレットに式田 暁春の家の住所を打ち込み、衛生画像で角度を変え見る。
「あった……菊の痕跡。……風柳さん、式田 暁春宅の庭に何かを抜いた後の痕跡がある。恐らく菊です。成分が大量に残っている筈ですから、鑑識を回しておいて下さい。現場にあったものと成分や品種が一致する筈です。我々は、式田 暁春に会いに行きます。家の中を調査する。僕は探偵です。家宅捜査はしませんが、秘策がある」
そう、黒影は言って風柳にニヤッと笑い、調査用のバックを手に取った。
「……先輩、やっぱり入国していましたよ!」
と、サダノブが黒影に告げる。
「完璧だ。パーフェクトだよ。……作られた完成だ。元より逃げも隠れもしない。早く行こう……」
見付かって良い犯人……自信過剰?否、やはり死んでも良いから逃げも隠れもせず、やり場の無い毎日を過ごしているに違いなかった。
黒影が既にデュランテ医師が日本にいると感じたのは、共犯が必要だったからだ。
しかもデュランテ医師の調書を見た時、気付いた。
スイス……「安楽死」が出来る国に態々行き、「安楽死」も行える医師の場所に、不治の病にある式田 揺波が行った。
理由は最早他に無い。
「安楽死」目当てだ。
然し、スイスで式田 揺波が安楽死した記録は無い。
ならば何処で?
そう……安楽死が法的に認められていない日本でだ。
――――――――
既に到着した頃、式田 暁春宅では庭で捜査が行われていた。
庭は任意だが、家宅捜査の許可は未だ降りてはいない。
黒影は風柳とサダノブを連れ、訪れた。
「あれだけ警察に文句言っておいて、ちゃっかり国家権力使ってるじゃないですか」
サダノブが風柳の警察手帳のお陰で、まんまと警察のフリをしてしれっと敷居を跨いだ黒影に小声で言う。
「使える物を使わないのは、宝の持ち腐れと言うのだよ。僕だって税金をたんまり取られているのだから、此のくらい造作無いさ。此れが無きゃ、協力要請なんか受けないよ。きょ、う、りょ、く、しているだけだ」
と、黒影はああ言えばこう言う……。風柳も其れを聞いてはいたが何時もの事だし、黒影に口喧嘩で勝てた事も無く、総て論破されるか丸め込まれるだけなので、サダノブの様に言うのも諦め苦笑いする。
「……貴方しか居ないですよね。……式田 暁春さん。こう言うのも失礼ですが、あれだけ弱りきって何も出来る状態じゃない揺波さんと最後迄関わりを持っていたのは貴方だけです。デュランテ医師は「安楽死」も出来ます。其れを貴方は知らなかった。だからこそ、スイスからトンボ帰りしたんだ。殆ど独りで歩けもしない、揺波さんを無理やり連れて。……其れが悪い事だとは言っていません。けれど、何も知らずに多額の費用を朝から翌朝迄、殆ど休み無く働き用立てたのに、まさか助けるどころか殺す為だと知った時、あの沈められた沼田 嘉樹医師を恨んでも当然だったと思います。」
黒影は荒屋のキッチンが見える、小さな居間にちょこんとある座卓に用意された平たい座布団に、スッと胡座を掻き座ると言った。
帽子を抜ぎ膝に掛ける様に置く。
「……確かに悔しかった。初めから言ってくれれば……」
其処で暁春は言葉を濁す。
「初めから知っていれば……何が違ったと言うのです?後からも最初からも同じ事。揺波さんは承諾していたのでは無いですか?そうで無ければ、もっと早く日本に帰国していたと思うのですが」
黒影の口調は優しくは無かった。未だ若い彼に、容赦ない形式ばった疑いの質問を打つける。
若いからと言って、決して甘やかしはしなかった。
……現実の厳しさを知らなくてはならない此れからに、教えられる物は其の入り口の未だ軽度に過ぎない厳しさだと知っている。
そして黒影は不動産屋から得た、此の安い貸し屋の間取り図と以前建っていた建物のデータをサダノブに言って、タブレットに表示させ暁春に見せた。
「……此処迄調べられるんですね。凄いな、警察って」
と、黒影とサダノブも警察関係者だと思って疑わない暁春は、その図面を見て言う。
「此処には、古い農家の屋敷があって農家が廃れ始めた頃、取り壊して小さな家を数件建て、貸し屋にされている。今も地主はその農家の老夫婦だ。其の頃の図面に蔵がある。古い農家だったのだから当然、備蓄用にあってなんら不自然な箇所は無い。然し此処……」
黒影は未だ農家の屋敷だった頃の蔵の一部を指差して、暁春に見せた。蔵の中に小さな四角いマークがある。
暁春は其れを見ても、驚きもせずにまるで他人事の様に眺めるだけだ。
「……此の下。夏には腐らない様温度の低い地下の貯蔵庫へ移動したりするんだと聞いた事がありましてね。其れが今もあるのではないかと思うんですよ」
黒影はそんな事を言った。
「へぇ……そんな物が。全く知りませんでした」
暁春はそう答える。
「知りませんか?……では、此れを現在の此の家の見取り図と重ねましょう」
と、黒影は言った。
サダノブは其れを聞いて、重ね合わせると、小さなテーブルのど真ん中に置く。
其処にいる全員に見える様にだ。
「何時まで安心しきっているのです。貴方の真下だと言っているのですよ、暁春さん。人間の心理とは単純でしてね。隠したい物は近くに無いと不安になるのです。デュランテ医師が事件発生数日前から姿を消しています。今回の事件は単独では行えない。
デュランテ医師が宿泊していると聞いた安宿に連絡を入れましたが、チェックインしていないと。更には一度も誰も顔を見ていない。宿代だけはカードで支払われていた。……そんなに、宿に帰れない程の用事とは何でしょう?僕は此の真下にいると思っています」
と、黒影が話し出す。サダノブは其の言葉にギョッとして足元を見乍ら数歩下がった。
「そんな古いものが如何のと言われても……。然もデュランテ医師が何の為に此処にいるみたいな言い方をするのですか?警察は何でも疑う物だとドラマで観たけど、本当ですね。疑い過ぎですよ。大体そんな物、今も使えるのだか如何かも分かったもんじゃない。デュランテ医師の気紛れに僕が付き合うとでも?あの人は揺波を殺そうとしたんだ!そんな奴、揺波がいた此の場所に一歩も入れやしないですよ!……僕は未だ揺波が亡くなったばかりで、葬儀や何やらで忙しいのですよ。そんな証拠もない言い掛かりで……。疲れているんです。捜査に協力しないとは言っていません。後日改めて礼状でも何でも持って来て下さい!」
そう、突き放す様に暁春は黒影に去る様に促した。
「……デュランテ医師が関係無い……。関係無いと今言ったのか!?……巫山戯るな……巫山戯るんじゃない!」
黒影はテーブルをバンッと叩いて、暁春を睨み付けた。
「良いか、式田 暁春!……関係の無いデュランテ医師まで共犯にして、閉じ込めて……互いに揺波さんを助けたくても助けられなかった二人だ。そんな同じ思いで最後迄手紙の遣り取りをして、同じ罪を背負ったデュランテ医師を関係無い等と良く嘘でも言えるな!……君は未だ全然分かっちゃいない!デュランテ医師が日本に来た想いも、何もかもだ。今、地下に生活し、陽の光り一つ浴びれないのだぞ?!君にとって、デュランテ医師は何だったんだ!……さぁ答えてくれ。デュランテ医師は君に取ってただ利用価値のある外国人であったか。其れとも同じ苦しみを唯一分かち合った友人であったのか!どんな気持ちで慣れない異国の地で、静かにデュランテ医師が地下にいる事か。……君よりずっと大人だよ。彼は既に己を律して其処にいる。なのに、君は如何だ?一体こんなところで何をしている!揺波さんは救えなかった。けれどデュランテ医師を救う事は今、君ならば出来るだろう!……少なくとも揺波さんの残された苦痛の時間を奪った時、彼も君も死神になる覚悟をしたのだろう?
終わったんだ……終わった。もう……命は戻って来やしない。君達の思う葬儀も、終わった。もう、死神でいる理由は何処にも無い。人間として裁かれ、人間として生きて良いんだ。其れこそ、死にたくなる程辛い日々が待っていようと。友を裏切るな。最後迄やり遂げたならば、少なくとも未練はもう無いね。デュランテ医師を迎えに行こう。祖国の空を今頃、夢見ているに違いない……」
黒影は怒りに震え言ったが、最後は願う様に暁春の手を取り目を決して逸らさずに言った。
「……僕等は……間違っていたんでしょうか……」
涙をポロポロ流し、力無く放心状態になった暁春は誰に向かうでも無い言葉で聞く。
「……分からない……。法廷で決めるものだ」
黒影は静かにそう言った。
すると、スーッと立ち上がり、暁春は己の座っていた場所から下がる。
「菊科の成分が検出されました!」
其の時、何処か遠くの者の様に、けれど確かに大きな声が上がった。
――――
「せめて……あの湖に……黙祷させて貰えませんか」
暁春が風柳に言った。
黒影も聞いていた。
「私も……あの湖には思い出があります。揺波さん……痛む身体で、如何してもと言うので、最後にボートに乗せたんですよ。思い出の場所だからと」
と、デュランテ医師が話す。
「……其れ……」
暁春には覚えがあった。
未だ元気だった頃……揺波とボートに乗って釣りに出た。
全然釣れなくて、大きな魚を取り逃がしたフリでもしてやろうと思ったんだ。
「あっ!今のでっかいブラックバスだ!」
と、少しボートを揺らして驚かすだけのつもりが、バランスを崩して自分が落ちてしまったのだ。
「あんな昔の……小さな事を……」
痛みに耐え考えていた事が、そんな思い出だったなんて……。
何にも知らなかった。
死んでも未だ……揺波の事……何一つ分かってやれなかった。
せめてあの湖で……また君に出逢えたなら……。
↓次のseason7-3 第六章へ↓
お賽銭箱と言う名の実は骸骨の手が出てくるびっくり箱。 著者の執筆の酒代か当てになる。若しくは珈琲代。 なんてなぁ〜要らないよ。大事なお金なんだ。自分の為に投資しなね。 今を良くする為、未来を良くする為に…てな。 如何してもなら、薔薇買って写メって皆で癒されるかな。