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黒影紳士 ZERO 01:00 〜双炎の陣〜第三章 独り善がりの月

第三章 独り善がりの月

 サダノブを上手く巻いた勲は満足気に満月の光に向かい歩き出す。
 黒いロングコートが凛とした姿を揺らす。
 シルクハットから流れるリボンが浮き足立つ、其の心を映し出しているかの様だった。
 弾む様な靴音は黒影と同じ……フットワークの軽さのキープにある。


 久方ぶりのシルクハットに馴染んで行く此の感覚……。
 此の喜びを何と例えようか……。
 月へ向かう其の影は、長い長い影を後ろに伸ばし進んで行く……。
 ……黒影が切り拓いた道では無い。
 私しには……私しだけの道が在る。
 そう信じて一歩……一歩……確実に、其のシルクハットと共に、自信を取り戻して行くのだった。
 ――――――

「……先ずは……警察が見落とし易いところからですね。恐らく、関係者や近所の話しは聞いた筈なのです。其れだけの事件が在ったならば。然し、女児暴行及び殺人容疑……而もキャリアが犯人かも知れないとあらば、調べないところも出て来る。私しは何れ探偵に成る気は無いが、何方にせよ……事件を追うならば、捜査の穴を突くべきでしょうね」
 勲はそう楽しそうに小声で言うと、走り出した。

 ……余りにも月が霧に隠れてしまったら、人々が眠ってしまう。
 夢を見る前に……手にしてみせよう「事実」の光明。

 ――――――
 向かったのは警視庁……。
 ビルを見上げるとヘリポートの赤いランプが見えた。
 ロビーから堂々と入る。
 黒影の様に、監視カメラを破壊する電波など持ち合わせていない。
 然し、そんな事なども如何でも良いのだ。
「事実」を知りたい……。
 後の事は黒影の後ろ盾のFBIが何とかしてくれるだろう。
 私しだけ……誰もいなくなった。
 影として取り残され、事件を独り追う事を余儀なくされました。
 白雪の為にと……なのに……気付けば、私しは黒影の影にされ、白雪迄奪われ。
 あの悔しさ……忘れもしないです。
 然し、人を憎んでも虚しいだけでした。
 己を負け犬にするのは己だと知ったのですよ。
 だから、私しはあの日から……目に見える、此の手で掴める「真実」だけを追い求める様になったのです。
 幻の様な影……だが、求めるは己に無い物。
 こんな話しを知りませんか?
 自分に最も会う運命の人と言うものは、遺伝子もフェロモンさえも真逆の存在らしいのです。
 無い物を見付け、無い子孫を残そうとするらしい。
 きっと魅せられているのですよ。
 恋するかの様に……。
 何時だって消えそうだった己の存在を確信させてくれるものは、「事実」だけでした。
 其れを虚しいなどとは思った事も御座いません。
 私しはね、「事実」に夢中に成る己すらも愛して止まないのですから。
 其れで満足だった。
 孤独も感じず生きて来れた。
 そう……思って来たつもりです。
 寄子さんに逢う迄は……。
 また孤独を呼び覚ますのだね、貴女は。
 君のいない世界に……何故、私しはいるのでしょうか。
 理由が貴女の為で在るならば、此の孤独さえも誉れと致しましょうか……。

  黒影のタブレットから盗んだ情報は、依頼内容。
 そして……あの人物……。
 寄子さんをあんな風にしてしまった、高梨 光輝(たかなし こうき)の現在の収容場所。
 収容場所を教えて貰ったからには、事件も解決してやるのが紳士としての筋と言う物ですからね。
 余計な借りは作らない。
 紳士は何時でも助け合うが、恩義は忘れては成りませんからね。
 特に私しは神経質な方ですから、気になって眠れなくなってしまうのですよ。

 黒影のタブレットにあった東海林 葵(とうかいりん あおい)のデータを復習する。
 超小型無線機もサダノブに繋がっている。
「サダノブ、聞こえるか?」
「あれ?先輩、営業はもう終わったんですか?」
 良かった……直ぐに出られたみたいでした。
 まぁ、いざと言う時にも使用する無線機でしょうから、常時サダノブが出れなくとも、白雪か風柳が出るに違いないのです。
「紫さんの基本データを洗い出してくれ。後、彼等のチームは確か、特殊な情報交換媒体を使用していた筈だ。サイコパスの葵さんが独自に作った、移動していても情報拡散をチーム内で簡単に出来る物だと聞いている。僕は警察庁の要人に今回の葵さんを引き摺り落とそうとする可能性のある、勢力を味方から聞こうと思ってね。……兎に角、酒が好きだから、夜明け迄に帰れるか如何か……。ちゃんと、時々連絡するから、白雪や風柳さんに心配するなと、伝えておいてくれ。……其の情報交換に葵さんのチームが使っていた独自媒体、難しいと思うが、「たすかーる」の涼子さんに外注して、ハッキングしろ。眠くなるだろうから、成功したらサダノブは録画、録音して、穂さんにも警邏を外注するから、交代で寝ていて構わないよ」
 と、黒影は指示を出した。
「えっ?録画に録音も?」
 サダノブが想像が付かない様で黒影に聞いた。
「ああ、単純なんだよ。映像に関しては。犯人を追い乍ら確認しなくてはいけないし、暗がりで見る事も想定し、空中の視界にスクリーンの様に浮かび上がらせる。3D映像の様な物で、時計と連動し、360度回転させ犯人の特徴を掴む事が出来るんだ。無線機は勿論ワイヤレス式で時計と連動している。葵さんだけが、其れ等チームの全員が持っている唯一無二の時計の設定、操作が可能だ。其処に大事な記録があるかも知れない。……頼んだよ」
 そう、黒影は言ったのだ。

 サダノブは、
「了解〜」
 と、答えたがやはり不思議に思って首を傾げたのだ。
 ……頼んだよ……か。
 言われなくても、何時も頼まれ事は聞いて来たじゃないか。何時もなら勝手に言って……勝手に任せた!みたいな勢いで走っている。
 先輩は外注ばかり頼りにしていたら捜査費用が嵩むと、仕事に関しては金銭面はきっちりしているのに、今日はやたら使うな……。
 それだけ、早く解決しなくてはいけない事件と言う事か…………あれ?
 サダノブの頭でも何かが引っ掛かる。
 そもそもVIP級キャリアを処分するには、それ相当の証拠がいる筈。
 なのに、何で先輩は急ぐのだろう?
 そりゃあ、早期解決した方が良いに決まっているが、此処迄急ぐ理由は何だ?
 何か俺にも未だ言えない理由があるのかな……。
 信じよう……今まで共に命掛けて戦って来た戦友じゃないか。
 期が来たら、きっと話してくれるに違いないんだ……。

黒影を疑いサダノブと反して、寄子を月夜に想、黒影(勲)のイメージ


 サダノブは黒影の異変には気付いたが、そう思い……またしても気にしない事にした。
 馬鹿と言うか……ただの馬鹿では無く、馬鹿正直に全面的に黒影と言うだけで、尊敬し信頼しているので仕方無いと言えば、仕方無い。
 ――――――

 一方の勲は警視庁の窓口で、こう告げた。
「僕は「黒影」と呼ばれる者です。今日は近くで営業していたものですから、あの……ほら……葵さんの件……如何せもう噂で皆んな知っているのでしょう?其の件で、調査報告書を拝見させて頂きたいのですよ。今、紫さんはご多忙でしょうから、何方か話しの通じる方はいませんかね?無理ならFBIからお願いする事になりますが……」
 と。
「くっ、黒影ですって!?」
 案内の女性は二人共、驚いて椅子を後ろに倒し立ち上がった。
「しーっ!……今日はついでに来たと言いましたよね?防犯カメラを壊して歩く無粋な真似はしませんから、取り継いで頂けると有難いのだが……」
 黒影はそう言って帽子の手前を下げ、顔をあまり見せたがらない仕草を態とする。
 本物ならば、堂々と防犯カメラに映っても、映像を消すか壊すのだから問題無い。
 勲が未だ「黒影」と言う、未来の己を知らない事実がそんな行動をさせるのだ。
「黒影」の……本当の気持ちも、分かってやれる程の、知識や経験が明らかに足りないとは、分かっていても……。
 ――――――――

「如何ぞ、今……案内が来ますので」
 案内の女性からからそう言われて、
「ご丁寧に態々すみませんね。其処迄気遣って下さらなくとも、僕は影でも足はちゃんとありますよ」
 と、黒影は磨き上げられた床の上で軽いタップを披露する。
「本当だわ……噂通り。裏社会では怖くても、丁寧で優しい人だと聞いていましたわ」
 と、案内の女性が言った。
「……そんな噂が……。やはり此処の監視カメラは活かしておいて正解だった様ですね」
 黒影はそう言うと、朗らかに笑う。

 ……何通りの笑い方も真似をした。鏡を見て近付けた。優しい……優しい……ならば、何故……。
 勲が其処迄考えた時、ふと頭を過った。
 黒影に睡眠薬入りの酒を飲ませる時……ギリギリまで、黒影は寄子の心配を口にしていた。
 ……でも……黒影だ。社交辞令だって慣れた物じゃないか……。
 不思議だ。己の未来なのに……嘘か本当かも見抜けない。
 愛は盲目か?……なぁ……黒影。
 何故……毒を入れた私しに気付いただろうに、あのウイスキーを飲んだんだ?
 私しはもう……自分の事すら分からない様だ。
 ――――――

 乾いた短く小さな笑いが、誰もいない資料室に響いた。
 態々探さなくても良い様にと、案内から資料を出して貰い、近くの机と……椅子に座り、トップシークレット扱いにされているその書類を開いた。

 被害者からの被害届け及び調書によると……
 ――――――――

 ◎被害者名◎清白 菜津美(すずしろ なつみ) 
 現在 22歳
 事件発生時 14年前(8歳の時)

東海林 葵の容疑

◎幼児虐待の容疑
1、14年程前に起きた
2、被害者は余りの苦痛に記憶を忘れていたが思い出した
3、内容は実験台の様にされた日々を語った
4、確かに葵だと言い張るのです←根拠を聞く必要がある。

◎自宅付近の小動物殺傷30匹
葵が現場勤務で
1、単独した行動した時
2、通勤時間に合わせたかの様に小動物が殺されている。
3、移動は此の車を使っている。

 被害者 清白 菜津美の証言によると、8歳の頃に身体等を触られた際の部屋中に何匹かの犬や猫がいた事、中には死骸もあった事は確かに覚えていると証言している。
 その際に腹部を切り裂かれたが、ショックで忘れており、
 ずっと縫合された傷は両親に聞いても分からず、病院に運ばれ下手な医者に縫合されたのだと思い込んでいた。
 だが、二週間前に東海林 葵総指揮補佐官に会った時、警官の服を着ていた事、顔を見て確かにこの人だったと想起する。
 腹部を切った後、縫合したのも、東海林 葵総指揮補佐官で間違い無いと証言した。

 その後備考
 容疑者がサイコパスである事からも、動物虐待をした可能性あり。此の事実は警察内部、上層部のみの物とされ口外は処分対象とする。

 東海林 葵総指揮官は容疑を全面的に否認。
 早急な裏取りが必要不可欠である。
 現在、東海林 葵総指揮官は休職中。
 最初の事件当時、東海林 葵総指揮官は未だ巡査であった為、警察官の服装をしていたと言う共通点はある。
 現在は私服が多い物の、容疑者と再会した日は警視庁のイベントに参加しており、制服姿であった事は一致する。
 アリバイも現在は無し。

 ――――――――
 と、されている。
「何も未だ分かっていない様ですね。彼方の無線の方が頼りになるかも知れない……」
 そう、勲は小言で紫の方がきっと速いに違い無いと思い口にした。
 勲は軽く机の端を爪先でコツコツと鳴らし、考える……。
 そして、其の音が止まると共に、バサッと漆黒のロングコートを回し広げ着ると、帽子を被り颯爽と歩き出す。
 ドアに姿を消す頃、其の影さえも跡形も無く、ドアの外へ吸い込まれて消えた。
 ――――――――――

「先輩!ぶんどり成功しましたよ〜」
 サダノブから無線で知らせが聞こえて来た。
「そうか、有難う。其方は如何だ?」
 勲は心配して聞く。
「問題ありませんよ。問題なのは、先輩が直ぐハッキングするから、風柳さんにバレて……風柳さん、今……機嫌悪いんですよ。違法捜査も大概にしないと……。後で風柳さんに謝っておいて下さいね!」
 と、サダノブが言うのだ。

 ……風柳さんか……厄介だな……。

 黒影に成り切っていたが、勲は此処で苦虫を噛み潰した様な顔をした。
 風柳は以前の黒影も今の黒影も知っている。
 其の事だけで言えば白雪も同じだが、風柳はまた別格だ。
 長年の刑事の勘が冴えたら最後……バレてしまう。
 隠そうとすればする程、疑うに違い無い。
 此処は風柳との接触を避けるのが無難だ。

「サダノブ、風柳さんには帰ってからちゃんと謝るよ。それより、外注もしたし風柳さんは何時事件で出動してもおかしく無いんだ。気にせず先に寝る様に、よくよく伝えておいてくれ」
 勲はそう言って、風柳と無線で話すのを避けた。
 警視庁を出ると、月が白く輝いて見える。
 まるで風柳の白虎の魂に、見透かされた気分になるのだ。
「……風柳さん……」
 勲は思わずその名を呟いた。
 兄だとも知らずに……。
 知った時には……いなかった。
 もっと……優しく出来たら……。もっと……大切に出来たら……。
 そうしたら、こんな後悔は無くなるのでしょうか……。
 黒影が私しから奪った全てが……時々憎くなる。
 こんなにも美しい月を前に……私しは何よりも醜く、孤独だ。
 このまま……黒影を手に掛け様ものならば、如何か……風柳さん……。
 私しを逮捕するのは、他でも無い……貴方でいて下さい。

 ――――――
 少し周りよりは古いデザインの一般的な民家。
 家の囲いはコンクリートで所々に菱形の模様が入っており、庭だけが異様に広かったが、一昔前はそんな物だったかと思う。
 何処か勲の良く見た景色に似て落ち着く。
 庭の盛り土が菱形の穴から溢れ無い様に、竜の髭と言う真っ直ぐな深緑の葉が見え、塀の内側では土を抑える様に根を這わせているだろうと想像出来る。
 竜の髭の花は白と青紫のグラデーションで、小さい乍らに其の花弁の先はすらりと尖り、月に映えて美しいものだ。
 そんな花の在る景色を想っていると、小さいながらの広がらない様に手入れした竹藪を見上げた。
 すると勲の丁度腰辺りの高さに、一枚の赤い画用紙の短冊を見付けたのだ。

 ……そうか。もう七夕でしたか……。

 勲はふと季節を感じると同時に、気付いた。
 ……被害者には、小さな子供がいるのだと。
 短冊に書かれた言葉は、
「ことしもみんなが わらって すごせますように」
 と、全て平仮名であった。
 被害者は小さな子供がいるにも関わらず……ならば、夫もいるに違い無いのに訴え出たのだ。
 勇気のいる決断であったに違い無い。
 事情を詳しく聞きに来たが、同情していたら黒影が起きてしまう。

 今夜……今夜中に、此の事件の「事実」を掴み取りたい!

 そんな影だけで生きてきた追跡に飢える心で、今ある被害者の幸せを壊してしまうのでは無いかと、一抹の不安を覚える。
 然し……もう、私しは後戻りは出来ないのです。
 黒影を殺そうとした。
 殺人未遂を犯しているのですから。
 今夜が終わればもう……一人犯人を追うだけの日々も終わる。
 其れを望んでいた気もするのです。
 ただただ寄子さんの事を心配には思いますが、後は黒影を信じて託すしかありません。
 若しくは………………。

 ――――――――――

「夜分にすみません」
 玄関から出て来た窶れ疲れ切った、痩せ型の女に話し掛ける。
 恐らく此の女性が、年頃と重なり訴え出た清白 菜津美(すずしろ なつみ)であると思われた。
 成人したとは言え22歳で子供を育てているならば、18歳あたりで結婚したと想定は出来る。
 未だ若い事から、苦労も絶えないのだろうと、勲は其の姿に思った。
「はい……何方様で?」
 勿論、そう聞かれるのは分かっている。
「事件の事について少し……」
 こんな惨たらしい事件だからこそ、密やかな声で言う。
 此処で何者かだなんて言わなくて良いのだ。
 普通はこんな事件ならば、他人様には其の被害を隠したくなるものだ。
 他にかなり親密な間柄にしか話していないとなると、他に知っているのは警察関係者だと分かる。
 だが、私しは言い当ててみせよう。
 此の少しでも考えれば分かる事を、考えずに彼女はこう言う。
「警察の方ですか?」
 ……ほら、確認した。
 これは警戒心が如何のと言う反応では無い。
 テレビドラマ等で見聞きした情報しか知らないのが、実際の事件に遭遇してしまった被害者の常識だ。
 だから、こう聞くものだろうと、安易に相槌の様に受け答えしてしまうのだ。
 勿論、私しは此れにも慣れている。聞き飽きた台詞とはこの事を言うのでしょうね。
「他の何者に見えますか?……お子様がいらした筈ですね。込み入った話かと思われますが大丈夫でしょうか」
 観察力と洞察力はこんな時にも役に立つ。私しにとっては、其れは「事実」を立証するまでの道具に過ぎないが。
「……ええ、構いません。未だ理解出来ない歳ですし……どうぞ」
 と、被害者 清白 菜津美は答え、男を引き入れる所を見られたくはなかったからか、周囲を気にしてから招き入れる。
「お嬢さんに、何か好きな熱中する物を見聞きさせておいて下さい。先程、理解出来ない歳だと仰りましたが、もう自我があります。成長の違いによりますが、後から覚えていて理解するという事もあるのです。菜津美さんが何年も後に事実を知ったように……」
 そう私しは言いました。
「そう……ですか……。分かりました。ちょっと待っていて下さい」
 そう言って菜津美は勲の言う様に、可愛いお姫様が出て来るDVDをテレビ画面に映し、娘に見せた。
「お待たせしました」
「いえ。……では、幾つかお伺い致します。思い出すのが辛くなったら言って下さい。休憩を取りましょう」
 勲は事件が事件なだけに気を遣う。
「分かりました」
 菜津美はダイニングチェアーに背を正し、座りなおした。
 やはりかなり緊張している様に窺える。
 思ったよりも記憶が曖昧ではないからだ。
 訴え出た所で、刑事裁判だ。多額の慰謝料目当て等ではない。
「記憶が戻るきっかげなどがあったかと思いますが、其れは?」
 「元から身体の傷の事を不思議には思っていました。何かあった、確かな証拠であるのに何も思い当たる節が無かったのですから。ただ……薄っすらと覚えていたのが、私……階段から突き落とされたのです……14年前のあの時に……。怖い夢か何かではっきり記憶しているのだと思いました。けれど、其の夢の続きが如何しても思い出せずにいたのです。変だと思いませんか?怖い夢ならは、怖いところ迄……普通は覚えています。けれど、私は思い出せませんでした。同じ物を幾つも買ってしまったりして、それが解離性健忘だと知った時、小さい頃の悲惨な虐待や性的暴行を受けた人が、統計上では多いと知りました。だから思い出した訳でも無いのです。もし、そんな事があっても私は今が幸せならば、無理に思い出す必要もないと、すっかりそんな事も忘れていたのですから」
 菜津美は事件当時の事を”あの時”と言った。はっきり言わないのは、やはり無意識に嫌な思い出として避けているのだと勲は納得した。
 自分は違うと思い出すまでは思いたい。そんな定義を聞かされたら誰だってそうに違いない。
「階段を突き落とされた記憶……ですか。其れが何故、東海林 葵さんだと繋がったのですか?」
 なかなか話の主題にはストレートには返してくれないが、其れは未だ心の整理が付いていないのだと、勲は慎重に少しずつシンプルな質問にし、答え易くしようと努力する。
 此れが黒影だったと思うと……ナイーブな性格だから聞く方が心を痛めて、いつも道理にしようとすればする程、雑に聞いてしまうに違いなかった。
 ……私しで本当に良かったよ。
 そう思った物の、思わず黒影にしてしまった事を思い出して、顔色を暗くした。
「如何かなさいましたか?」
 と、勲の顔色が変わった事に気付き、菜津美は心配する。
「否……酷い事件だと思っただけです。何も菜津美さんの気持ちも分からないのに、失礼しました。階段と東海林 葵さんが繋がる理由からでしたね」
 勲は帽子を下げた。菜津美が惨忍な事件の事を思い出した事で、この事を話すと……つい過剰に人の反応を気にしてしまうのだと気付いたからだ。
「……警笛です」
「警笛?」
 勲は思った。ただ警笛だけが「事実」である筈は無い。
 そんな弱い「事実」は幾らでも覆されてしまう。
 ならば徹底的な物が、”警笛”から派生しているのではないかと。
「階段から突き落とされた時、肩を掴まれた瞬間に咄嗟に其の手を見たのです。そうしたら肩に掴んだ誰かは警笛を紐でぶら下げていたのでしょう。其れが目に入って来るのです。つい先日、警視庁のイベントでエコバックを貰えるらしいと行った時に、私……買い物の帰りで、沢山荷物を持っていましたから階段から落ちそうになってしまったんです。其の時に肩を掴み、助けてくれた人が東海林 葵さんでした。その時に記憶が繋がったと思ったのです。あの掴み方……そしてあの時と同じ様に、私の肩に警笛が乗りました。一瞬であの時何があったのか不確かだった記憶が蘇ったのです。……他にも警笛を装備した警察官の方はいましたが、他を見ても恐怖心は有りませんでした。だからきっと……」
 其処迄答えると、菜津美は言葉を濁らせた。
 「そうでしたか。ですが……此れは事実確認として聴いています。失礼を承知で申し上げますが、掴まれた感触と警笛……此れだけでは確かな証言とは私しには到底思えません。菜津美さん……今回の件で訴えられた方の気持ちを考えた事はありますか?」
 勲は菜津美を諭す様に、やんわりとした声で行ったのだが……。
「あの時の記憶もはっきりとしたと言いました!何をされたのか、思い出したのですよっ!其れがどんな苦痛な事だったか貴方に何が分かるんです!思い出すだけで未だ腹部がズキズキと傷む様な感覚に襲われる。思い出した頃には頻繫で、しょっちゅうですよ?この病名だと知った時、誰にも言えなくて、相談すら出来なかった。なのに彼奴は何食わぬ顔をして平然と生きている。其れが警視庁のお偉いさんだなんて、許せると思いますか!?私は恥を承知で、復讐すると決めたんです!被害がまた出るかも知れないのに、黙ってはいられませんっ!」
 と、菜津美は興奮状態に陥り、訴えるような顔で、つい声も大きくなる。
「菜津美さん、娘さんが見ています」
 勲は落ち着いた声でそう言った。
 菜津美は自分の娘を、未だ息を切らした状態で見詰め、黙り込む。
 勲は無言でキッチンに見えたグラスを一つ取り、水を入れた。
「私しには計り知れない苦痛だったと思います。理解したくても総ては永遠に無理でしょう。……娘さんの事を思って、未来にそんな事件を残さない様に、恥を覚悟で訴え出て下さった。……其れについては勇気ある選択をして下さった事に、僕ら警察は裁判での証言に待ったを掛けられるわけではないですが、感謝はしているんですよ。どうぞ、此れでも飲んで落ち着かせて下さい」
 勲は水入りのグラスを差出し、ゆっくりそう話した。自分は警察とは無関係ではあるが、ずっと風柳と共に歩んで来た道。
 警察の人間のふりをして聞き込み捜査に此処へは来たが、其の言葉は噓では無く……心からそう思っていた。
 そして娘さんがまたテレビ画面を見出しした事を確認すると、ゆっくり水を飲む菜津美にこんな事を話した。
「昔、アメリカで解離性健忘の女性が小さい頃に、父親に性的暴行を受けたと訴えた事件がありました。父親は禁固何十年も刑を言い渡されます。然し、何十年か経過し、裏取り取りをしていく中で、記憶違いであり父親は無罪だった言う事がありました。ほぼ、言い渡された刑期を刑務所で過ごしてやっと無罪証明されたのです。殆どの人生を無駄にしたと言っても良いでしょう。それだけ、記憶と言う物は確実性の無い物なのです。其れを証言として採用するには、そんな間違いが起こらない様に、きちんとした裏付けが必要だと言う事です。我々が調べる間にも苦しい想いをされるのは心苦しいですが、一度裁判で無罪になってしまえば、同じ罪を問う事は出来なくなってしまいます。確実性を我々が必ず見つけ出します。もう安心して良いのですよ。もう……大丈夫になったんです」
 勲はそんな事を話した。
「もう……大丈夫……」
 菜津美は実感が未だ無いのか、ぼんやりと口にした。
「ええ、大丈夫ですよ」
 勲は念を押す様に言った。

 この言葉を口にした以上は、確実性を持って犯人を仕留めると心で決めている。
 中途半端な気持ちで、こんな優しい言葉を使う程甘くは無い。
「事実」を掴み仕留める野心に駆られて、影が疼いて仕方がない。

 鬼さん此方……闇なる影へ……。

 ーーーーーーー

 勲は菜津美と別れると、裏取りに走った。
 今夜中に何処迄掴めるかは自分との勝負でもある。
 黒影のタブレット端末を使い、清白 菜津美宅から子供の行動範囲であったであろう場所をマークし、閉店時間を調べる。
 閉店時間の早い店や駅等の大小の施設まで確認した。
 そして、スッと闇に消えたかと其の姿を探して見れば己の影を使って影から影へと移動して行くのである。
 全て回り切り、やっと望んでいた「事実」を見付け出した頃、夏の早い朝日が薄っすらと空を青く染めようとしていた。

 明けゆく空に白い月が浮かんでいる。
 ……そろそろ黒影が起きる頃合いだ。
 本当は未だ迷っているんだ。
 一層の事、もう一日眠らせようか。
 否、出来る事ならば此の答えのない問題が解決するまで、もしも一生だったとしても眠っていて欲しい。
 それでも、生きていて欲しいと……今更ながらに、この美しい夜明けに想うのだ。

※更新日は不定期です。
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