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誰も知らない死出の旅路~定子の辞世歌~
▶誤解された定子の辞世歌
定子が残した複数の辞世歌のうち、これは今を生きるすべての人々、つまり「私たち」に宛てられた一首です。千年前、若き定子は、この世の生者が誰も知らない「死出の旅路」に自らが向かう気持ちを詠みました。そうやって彼女は、人々の「生」とその「最期」の瞬間にまで、寄り添おうとしたのです。
知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな(藤原定子)
新全訳
(それがどのようなものなのか、)知る人とてない死出の道に、(それゆえ、)心細く思いながらも、今はその時と、急ぎ立つのです。
ところが、従来この歌は、肝心の「知る人もなき別れ路」という冒頭部分について、「それがどのようなものなのか、知る人とてない死出の道」ではなく、「知り合いがいない死出の道」という意味で理解されてきています。
いわゆる中関白家の凋落という、〈自明〉の歴史を前提に、例によって、定子の政治的な不幸(不遇)と直結させる解釈です。研究者らは先入観から離れられずに、藤原定子が、つらく悲しい思いをしながらひとり孤独に死んでいったと思い込んでいるのです。
その上で、『源氏物語』の悲劇のヒロイン・桐壺更衣の歌と似ていると言う人もいますが、実のところ、両者はまったく異なっています。
かぎりとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり(桐壺更衣)
この桐壺更衣の歌が「本当は死にたくない」と訴えるものであるとするとき、それは、自らの死に臨んでなお「人々の心に寄り添おう」とする定子の辞世歌とは、いわば「真逆」の意味の歌と言えます。
▶『源氏物語』のたくらみ
つまり、『源氏物語』には、定子の辞世歌の素直な理解を妨げる、「仕掛け」が施されていると考えなくてはなりません。『源氏物語』のまさに「たくらみ」。『枕草子』についても、現代の人はみな、『源氏物語』のフィルターを通して眺めてしまっているのです。
それに気づかず、二つの歌が単に「似ている」という誤った前提に立って、物語作者・紫式部の心中をさまざまに想像するのは、無駄なことではないでしょうか。
なかんずく、すでになされた反論を「なかったこと」にする時点で、もはや「研究」とは言えません。届いたばかりの学会大会「シンポジウム」の資料を見たいま、私はもう、「そこ」では発言する意味がないと思うに至った次第です。
仮に自分にしかできない反論があるとして、私はすでにそれを行っています(下記、2015年の拙論ほか)。
議論の対象は、例えば山本淳子氏による、「死出の旅を『知る人もなき』と言っているが、あの世には父もいるし母もいるはずである。だが、今それは彼女の心にない。思いのすべてを現世に遺しつつ、ひとり逝かなくてはならない孤独、そして無念の情」(『源氏物語の時代 一条天皇と后たちの物語』朝日新聞出版 2007年、168ページ)という「解釈」について。
拙著『続・王朝文学論 解釈的発見の手法と論理』(新典社 2019年)、Ⅱ篇「和歌を読み解く」、第3章から引用します。初出は、圷美奈子「知られざる『躑躅』の歌と、定子辞世『別れ路』の歌」(『古代中世文学論考 第32集』新典社 2015年)。
定子辞世「別れ路」詠初句の「知る人」は、定子の「知る人」ではない。「別れ路」を「知る人」である。
すなわち、「別れ路を知る人」がいないと言っているのだ。確かに、生者の世界であるこの世に、死出の旅路を見知っている者は誰一人いない。その未知の旅路に出立する気持ちをいま、定子は「心細くも」と表現しているのである。
詠まれている内容は、人の死をめぐるものとして非常に普遍的なものであるが、だからこそ、和歌の歴史においては「革新的」な一首とも言える。それゆえ、誤解も生まれるのである。
「知る人もなき別れ路」という歌の言葉を、〈自分にとって見知った者のないあの世へ行く路〉と解すというのは、そういうことである。
定子は、〝誰も経験のない旅路〟としての死出の旅路に出で立つ気持ちを「心細い」と言っているのであり、あの世にいるはずの「父や母」の存在がこのとき「心にない」からではない。
詳細は、こちらです。
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※初出論文の掲載書籍です。
古代中世文学論考 第32集 | 株式会社 新典社 (shintensha.co.jp)
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