理論が上で、感情が下?
ずっと感じてきたこと。
それは、理論が価値が高く、感情は低い、上下関係のヒエラルキーがあって、感情を無くした理論理屈の世界が大人だと、無意識に思っている風潮があるということ。
ヒエラルキーの正体
でもよく見ると、理屈が価値が高いと思っている人の中には、「感情なんてくだらない」と思っている人が結構いて、そういう人は確かに物事をよく知っていて優秀なんだけど、何かが大きく欠けている。
大体が、人を理屈で言い負かすことが好きで、自分は感情を制していると思い込んでいる節がある。
ところが、実のところ、自分の感情をうまく取り扱えなくて、大切な人の感情を傷つけたり、他人の感情が読めなかったり、感情を暴走させて大失敗をした過去を抱えていたり、感情のコントロールができないことに向き合う勇気を持てなかったり、とにかく感情に苦慮していたりするのだ。
そして、感情が豊かな人は、感じやすくて、でも理屈は苦手で、難しい話はすぐに飽きちゃって、でも、自分の感情の揺れをなんとかしたいと思っている。
感じやすくて敏感だからなのか、世の中の価値観にも従順で「理屈が上で、感情が下だ」というヒエラルキーを、自ら率先して受け入れている節がある。
そして、自ら「感情が揺れやすい自分はダメだなあ」といつも自己反省をするのだ。
理屈が上で、感情が下。
このヒエラルキーのおかしさに気づくと、いろんなことが滑稽に感じてくる。
理論の下で感情がうごめく
例えば、公の立場でのルール。
社会人として働く場合は、感情は軽視されるので、覆い隠し、見せないようにして、皆が揃って「黒いスーツ」を着込み、感情を隠して入社試験に臨む。
ところが、入った職場では、ドロドロした感情が渦巻いていて、呑み込まれないように、自分の感情に鍵をかけて必死に平静を装う、まるで化かし合いをしているかのようだったり。
最たる公の場は政治。
感情を見せずに、理論で戦う戦場のように見せているけれど、激しくうごめく感情が透け透けになるたびに、その腹黒さにうんざりしちゃうとか。
戦争は女の顔をしていない
先日、面白い番組を観た。
ロシアのノンフィクション作家で、ノーベル文学賞を受賞したアレクシエーヴィッチ著「戦争は女の顔をしていない」(NHK100分で名著)をひも説いていく番組。「変なタイトルだなあ」と思って、全く何の下地も持たないまま観ていると、グングン引き込まれていった。
内容は、戦地に志願した若い女性たちの目から観た戦争を、インタビューを中心に構成しているものだった。
時は、第二次世界大戦下のソ連。
ソ連では史上最悪の戦争といわれ、100万人の若い女性たちも自ら志願して、前線に赴くのだ。(ドイツとの戦いでは戦死者ドイツ軍440万人〜550万人に対して、ソ連軍2000万人〜3000万人という数字から見ても悲惨さが伝わってくる)
そして、女性の帰還兵たちの声をたくさん集めたこの本は、のちにノーベル文学賞を受賞することになる。
これまで、男性目線から語られてきた戦争が、前線に赴いた女性たちの目線を通すと、全く違ったものに見えてくる。
しかも、女性たちの証言の中で共通していたのが、感情の揺れ。
これは新鮮だった。
祖国のために志願して赴いたものの、過酷な日々を送る中で、次第に戦意は失われていった。
彼女たちは、決して命をかけて戦い勝利することを望んでいるわけじゃなく、もっと人間的で、正直な心の揺れがあり、それが肌感覚で伝わってくるのだ。
例えば、戦場で倒れている負傷兵を安全な場所まで引きずっていき、手当てしようとして敵国の兵士だと気づいてうろたえるけど、そのまま介助を続けたり、空腹で苦しんでいる敵国の捕虜兵士に自分のパンを渡すと、同僚の男性兵士から罵られたり。
戦地で手作りの結婚式をした話は面白かった。
戦場で出会った男女が恋に落ち、生きて帰れるかわからない環境の中で、仲間がひと月かけてくすねた包帯を集め、ガーゼにしてウエディングドレスを作り、手作りの結婚式をあげたというのだ。
「一番心に残った経験は?」と問われて、少女のように話す彼女だったが、実はインタビューの前に、夫から「決して恋愛の話はするな!」と口止めされ、男の言葉で、男の戦争を、地図を広げて彼女にレクチャーされていたのだ。
ところが、彼女は「私なんかが歴史家になんてなれないわ」といい、ささやかな喜びを手繰り寄せながら生き延びたことを、満足そうに語るのだ。
ある女性は、「一番恐ろしかったことは?」という質問に対して、「死だというと思っているだろう? でもそうじゃない。私が一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはかされたことだ」という言葉は、心の中にいつまでも余韻が残った。
またある女性は、みすぼらしい死に方はしたくないと、砲弾が飛び交う中、顔だけを必死に両手で覆いながら走って逃げ回っていたことを、男性兵士から馬鹿にされたものだと語った。
つまり、戦争の前線に赴いた彼女たちが感じていたのは、戦争という大義名分の中で、生身の人間を殺し合うことに対して、適するプログラムが自分たちの中にはなかったということ。
戦争の正当性を、女性たちの中には見出せなかったということなのだ。
感情と向き合える人を大人という
人間は、極限の中に置かれても、ささやかな喜びを見出して、生き延びようとするものなのだと驚いた。
つまり、本質は理屈じゃなくて感情の中にあり、最後はその感情を頼りに生きようとするのが人間なんだ。
それが、いつの間にか感情は軽視され、心の中では納得できていなくても、理屈をこねられると「そうなのかな」「そうなんだろうな」と思い込もうとして、強い発言権を持つ、理屈の上手な人の言いなりになってしまう。
感情は放ったらかしにしちゃいけない。
人の声を聞いて、自分のことのように心を震わせる感情があって、初めて真実の正しい道を選択できる、そういう生きものが人間なんだ。
アレクシエーヴィッチが語った言葉に、心に刺さるものがあった。
それは、インタビューで構成される本の製作を揶揄する声に対して言った言葉だ。
「私はただ書き取っているだけじゃない。ちっぽけな人間が、大きくなる時のその心の道筋を辿ろうとしてるのだ」
「思想とは、大きな人間にとっては余計で不便なもので、手がかかりすぎている」
「私は、大きな内容を秘めた、ちっぽけな人たちを探しているのだ」
なるほど、そうかもしれない。
私は、ちっぽけなのに大きなことを言う人を、嫌と言うほど見てきた。
そう。うんざりするほど。
「理屈が上で、感情が下だ」なんて、そう公言できる人こそ「自分は、目を閉じずに、真正面から自身の真の姿を直視することができるだろうか」と問うべきかもしれない。
カッコよく見せる、細工をした鏡ではなく、ありのままの姿を映し出してくれる鏡の前に立ち、食い入るように自分の姿を眺められたとしたら、そういう人を「大人」と呼ぶのだろう。
鶯千恭子(おうち きょうこ)