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なりたくない?📕違和感のある成功への道!

なりたくない?

経済的に苦しい環境で育ってきた私には「お金があれば…」という思いがずっ〜とありました。生きるためには絶対に欠かすことのできないお金。

しかし,いわゆる成功者(TVやネットなどで見聞きする範囲)には,残念ながら魅力を感じません。もちろんすべての人に対してではありませんが,同じ道を歩みたいと思えないのです。生活に必要なものを自由に買えるくらいの経済力は持ちたい。しかし「○○で成功する方法」などという人たちの言動の多くに,心から賛同することはできない。微妙なベクトルの違いを感じるのです。

このことは経済分野以外のことにも通じるのではないでしょうか。教育の領域に関しても同じことが言えると思います。巷に溢れている「◯◯に合格する方法」などという記事に,私は仕事上目を通すのですが,読んでもあまりおもしろくない。成績が上がった事例においても,希望の進学先に合格したという成功事例においても,本人がその喜びを純粋に語ってくれる場合,また自身が体験して得た勉強方法を友達や後輩に教えてあげたいという気持ちで話す場合は別にして,個人または企業が,ただの自慢?や売上だけ?の目的のために「成績が上がる◯◯秘術」や「◯◯大学に一発で受かる方法」などということを発信する…何かが違う…参考にもならないし,感動もしない。

お金を稼げるようになることも,学力がメキメキ上がることも,本来喜ばしいことのはずで,その成功への道のりを教えてくれるのは,ありがたいことなのに…。

では、その違和感はどこから来ているのか?

ここからは教育に絞って,特に各ご家庭での子どもに対する親の教育がどうかということに絡めて,私のわだかまりを整理してみます。身近な例の方が分かりやすいはず。


①目標と目的を履き違えている??
最終ゴール(目標)は常に自身の成長,その過程(目的)として成績向上のための努力や受験勉強の取り組みがある。勉強をゴールとしてはいけない。家庭で「勉強しなさい」また「宿題やったの」と口うるさく言うのも,この履き違えの典型的な例です。いつのまにか,親自身が大切なことを外してしまって子どもと対峙している。その結果,自分が子どもの可能性に制限をかけているにも関わらず,成績が伸びないことを人のせいにする。ーーー「目的自体が目標になってしまっている」ときに,私は強い違和感を抱くようです。

②上下関係をつくってしまう??
あらゆる差別を排除しようという時代。それなのに,成功体験を発信したことが「成功者」と「無知の者」の格差を生んでしまう。家庭教育で考えた場合,「私は経験抱負な親なんだよ」そして「あなたは未熟な子どもでしょ」という上下関係にしがみついて,子どもの心の声に耳を傾けずに一方的に接してしまう。そうなってしまうと,もはや子どものためではなく,自分のため…さらに言えば,人を支配したいという欲求に負けてしまっている。ーーー知らず知らずのうちに,自分が上で人が下でなければ,気がすまなくなる。怖いことです。

③成功したのに境涯が低い??
私がここで使う境涯とは,心の深さと広さ(他人を思いやる心)という意味です。本来の意味を掘り下げて私個人の考えで使っていますのでご注意ください。いくら成功したとしても,目標と目的を取り違えてしまっては,あとに残るのは幻想だけ。物質や社会的地位,成績や出身校は目に見えるので,それらが幻想とはどういうことか?と疑問に思われる方もいるかもしれません。しかし,物や名声は常に変わるもので,いつ無くなっても不思議ではない。しかし,心に刻んだ宝は決して消えるものではないですし,その宝があれば,どんな環境でも力強く生きて行くことができます。本物の成功者とは,思いやりのある懐の深い実力者だと思うのです。ーーー何歳になっても自分自身に挑戦し続けなければ,簡単に手に入れることはできないでしょう。

何事も他人ではなく,すべて自分との戦い。これには例外はない…と日々,自分を振り返って見直す時間を取りたいものです。


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