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【エッセイ】『ご都合主義』と言わないで。【言葉偏愛】
朝方の冷え込みで、毎日の執筆が過酷になりつつある今日。
頭も冷えているのか、創作意欲に火がつかないことも増えた気がしています。
そうして日々、創作と向き合っていると見えてくる壁。
創作というのはいわば、セルフツッコミとの戦いなわけで、常に自分の中にいる冷静な批判者と向き合っていかねばならない。
例えば脚本の都合上、登場人物のだれかに死んでもらうことになれば、それは主人公を落ち込ませるためだったり、動機を与えるためだったりする。
つまりそれは作者の都合という戦略のもと、登場人物というコマを動かすようなもの。
そういう作者ファーストの姿勢を揶揄する表現として、こんなふうな文句がつくことがある。
「この展開、ご都合主義じゃね?」
そう言いたくなる気持ちは、なんとなくわかる。
わかるけれども、どうしても認めるわけにはいかない。
というか僕に物書きという自負がある以上、この言葉に反旗を翻し、NOを突きつけないわけにはいかないのだ。
◇
というのも、創作世界に向き合えば向き合うほど、自分の力の及ぶ範囲の狭さに驚かされているからなのだ。
特に長編なんかを書いているとき。
『あれ、こいつチョイ役だったのに、めっちゃ主張してくるな』とか『次は遊園地のシーンなのに、主人公ぜんぜん家から出ないやん』ということが、けっこうある。
そしてこの場合、小説の流れに身を委ねれば委ねるほど、書いていて断然楽しい。
自分が用意した筋書き通りにいかない。
このさきどうなるんだろう。
その好奇心は、文を綴っていくうえでのよき燃料となる。
本当に他人にバトンを渡して、どうなるかわからないリレー小説なんかはその点において特筆すべきものがあるのだけど、それはちょっと例外でしょうか。
◇
僕がここで主張したいのは、ある作品を『ご都合主義的だなあ……』と感じたとしても、それ実は作者の都合ではないかもしれませんよ、ということだ。
どういうことか。
例えば、こんなシーンを想像してみてほしい。
ひったくりかなにかで逃げる犯人。
それを追いかける主人公。
車がびゅんびゅん行き交う大通りを、ぶつかることなく抜けていく犯人。
パニック状態に陥った車道を、軽快にかわしていく主人公。
しかし、これは本当に作者の描きたいものだと言えるだろうか。
実は、この逃走劇は本来予定していないもので、犯人は通りがかった一台目の軽自動車にはねられ、あっけなくお縄になるという筋だったかもしれない。
通りを抜けてハイウエイを駆ける犯人。
その足元の一般道に大型トラックが。
犯人は意を決して飛び降りる。
荷台にしがみつき、これで逃げおおせたと思いきや、後方の同じようなトラックの上に主人公の姿。
ここでも本来は衝撃を感じたトラックの運ちゃんが「なんだなんだ?」と急停止をして、慣性によって上から転がり落ちてきた犯人を取り押さえるという筋であった可能性は否定しきれない。
追い込まれたかに見えた犯人。
しかし何事もなく走行するトラックが、運河に差し掛かるタイミングで決死のダイブを試みる。
ここで本来、水中に現れるはずの人食いザメがこない。
無事、運河を泳いでいく犯人。
服に染み込んだ水は相当な重量のはずだが、火事場の馬鹿力かなにかが発動し、岸までたどり着いてしまう。
しかし振り返ると、本筋の主人公はすぐ後ろまで迫っている。
路地裏に逃げ込む犯人。
上陸した主人公がその一角を曲がると、犯人は本筋の都合を無視して、煙のように消えてしまった……。
こんなアクション映画でよく観る、いわば『お約束』的な展開ですら、本筋を大きく逸れ、決してご都合通りにいかなくなった結果の産物かもしれないのだ。
「この犯人、何者なんだよ……」
本当は脚本家は、ひったくりの犯人を捕まえた主人公と、荷物の持ち主であるヒロインとのラブラブキュンキュン恋愛模様を描きたかっただけかもしれないのだ。
脚本家の彼はそれから、自分自身も知らない巨大な陰謀に巻き込まれていく……。
◇
そもそも「こんな展開、ご都合主義じゃん!」というよく見る批判は、一つの価値観に基づいている。
それは『思い通りにいかない現実』と『コントロール可能なフィクション』という二項対立である。
この世界というものは、必ずしもすべてが自分の思い通りにはならず、棚ぼた的な嬉しいことや、ゲリラ豪雨みたいな災難が意図せず降りかかる。
その思い通りにならなさを、誰かがコントロールしているはずのフィクションにぶつけているだけなのかもしれない。
されど作者といえど、複雑な現実を構成する諸要素のひとつに過ぎないのだ。
つまりここで働いている力学というのは単に、書き手と読み手のご都合のぶつかりあいにすぎないのかもしれない。
◇
しかし、ここで批判者を「ああ、そうか。あなたは現実がつらすぎるあまりにフィクションの世界に逃げ込み、しかしそこでも観たい景色は観せてもらうことができずに、親に不満をぶつける子どものように喚いているのですね」と決めつけるのも、ちょっと早計だろう。
なぜなら、この僕だってそうだからだ。
ただ口にしていないだけで、僕の人生をコントロールしているであろう脚本家には言いたいことが山程ある。
本当にそういう者が存在するかどうかは、この際どうでもよくて。
なぜ僕をこんな変な性格にしたのか、とか。
なぜ日本酒の耐性を僕にくれなかったのか。
これでは日本酒大好きな彼女との飲みが充分に楽しめないではないか。
そしてなぜ公募に送っている小説が、未だにかすりもしないのか。
いつまで『フリ』の部分をやっているつもりなのだろう。
そろそろ『オチ』がきてもいいはずである。
観客もきっと飽きてるに違いない。
さっさとカタルシスを迎えて、第二幕『知的変態作家編』に突入し、未だみぬ知的変態作家たちと壮絶なバトルを繰り広げるべきではないでしょうか。
ほんと、ご都合主義も甚だしいのである。