「緊急事態宣言」下における公衆衛生と人権とのバランスとは?(石埼学)
石埼 学(龍谷大学法学部教授〔憲法学〕)
はじめに
新型コロナ特措法32条に基づく緊急事態宣言が2020年4月7日になされ、同法45条に基づき外出自粛要請、学校や公の施設等の施設利用の制限若しくは停止等の要請、各種営業の休業要請等が7つの都府県で発令された*1。
一方では新型コロナウィルス(以下「新型コロナ」とする。)への感染への不安が国民*2の間で高まり、他方では今回の緊急事態宣言による人権制約への懸念が表明されている。筆者は、このいずれも根拠のある不安であり、懸念であると考える。本稿では、そのことについて憲法学の見地から若干の考察をし、またこの機に乗じた緊急事態条項新設の動きを批判する。
1 新型コロナによる公衆衛生上の危機
日本における新型コロナの感染者は、厚生労働省によると、4月11日12時で6005例にのぼり*3、日々、増加しつつある。新型コロナは新しく確認されたウィルスであるから、現時点では確立された治療法や治療薬がなく、また国民全員が免疫を持っていないため、爆発的に感染者が増し、重症者や死者が多く出てしまうことが強く懸念されている。
それゆえ、一定の期間の大規模な人権制約を伴うとはいえ、新型コロナへの国民の感染防止のための今回の緊急事態宣言は憲法上許容されると考える。なぜなら、憲法25条2項は、「国は……公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定しており、公衆衛生の向上及び増進は憲法上の重要な価値を有するからである。ここで公衆衛生とは「国民の健康の保全および増進」*4を意味する。新型コロナのまん延防止は、たとえ人権が一定の期間にわたり大規模に制約されるとしても、国民の健康の保全のために必要不可欠なことである。
2 現行憲法史上最大規模の人権制約
もっとも緊急事態宣言のもとで、国民の人権は、現行憲法史上最大規模の制約に服している。例えば、外出自粛要請は移動の自由(憲法22条1項)の制約、施設利用禁止要請は表現・集会の自由(憲法21条1項)等の制約、休業要請は営業の自由(憲法22条1項)等の制約であり、学校の休校は子どもの学習権(憲法26条1項)を大人が充足させられない事態である。
これだけ多方面にわたる国民の人権の制約は現行憲法史上類がないであろう。それゆえに、国民の健康の保全のためにやむをえないとはいえ、今回の緊急事態制限下での人権の制約がその不当な侵害にわたらないように、私たちは、事態をよく監視しなければならない。
3 対面のコミュニケーションの縮減
憲法学の見地から今回の緊急事態宣言下の人権制約で特に懸念されるのは、個々のさまざまな人権の制約そのものもさることながら、特に移動の自由が制限されることによる「人々が差し向かい(face to face)で行う意志伝逹、意見交換」*5すなわち対面のコミュニケーションの量の大規模な縮減である。
メール、SNSあるいはテレビ会議等では代用できない対面のコミュニケーションの意義を、私たちは、今までになく強く感じているはずである。あたりまえに通勤や登校をし、あたりまえに買い物に行き、あたりまえに美術館や映画館や図書館へ行き、あたりまえに表現活動や集会をし、あたりまえに友人や同僚や教師らとふれあう日々が、一時的にせよ失われているのである。
対面のコミュニケーションが大幅に縮減されざるをえない状況は、現在は、量的にそれが大規模であるという問題だが、悪質なものに変貌しないとは限らない。対面のコミュニケーションの大規模な縮減が悪質化すると、ひとり一人の人生や生活に長期に及ぶ悪影響を残しうるし、ひいては民主主義の過程を傷つけるおそれすらある。
正面には新型コロナによる公衆衛生の危機があり、背面には尊重されるべき個人の自由や民主主義の取り返しのつかない毀損(きそん)という崖っぷちが待ち構えているのだ。いずれも重要な憲法上の価値のはざまで、私たちは、控えるべきは控え、言うべきことは言い、しばらくの間は忍耐力と勇気をもって生きることを余儀なくされている。
4 安倍首相の改憲への期待
公衆衛生上の危機への不安と人権の大規模な制約への懸念の両方を抱えつつ、多くの国民が生活することを余儀なくされているにもかかわらず、この状況を悪用しようとする動きが一部に見られるのは実に残念なことである。
例えば、安倍晋三首相は、今回の緊急事態宣言の直前の4月7日の衆議院議員運営委員会で「今般の新型コロナウィルス感染症への対応を踏まえつつ、国会で与野党の枠を超えた活発な議論が展開することを期待したい」と緊急事態条項の憲法への新設*6を含む改憲論議の高まりに期待をにじませた。
このような改憲論議への期待について、まず指摘しなければならないのは、現在の状況での改憲論議は、対面のコミュニケーションが大幅に制約されており、改憲についての賛否を国民が様々な方法で表明することや国民による情報収集が困難であるから、危険極まりないということである。それのみならず、この公衆衛生の危機に乗じて、今回の法律上の緊急事態と似て非なる憲法上の緊急事態条項新設への意欲を示すなど不見識極まりないというべきである。
国会制定法(法律)である新型コロナ特措法に基づく緊急事態宣言は大規模な人権制約を伴うものであるが、この国の意思決定の仕組みに変更を加えるものではない。また国会制定法であるから、法律そのものもそれに基づく人権制約も裁判所の違憲審査権に服する。
それに対して自民党が目論む憲法上の緊急事態条項新設は、国家緊急権の一種であり、国会制定法と同等の効力を持つ政令を内閣が制定できるようにするなど、緊急事態における意思決定の仕組みそのものに変更を加えるものである。またそれは憲法上のものであるから、裁判所の違憲審査権に服さない。両者は「緊急事態」という言葉は一緒でも、似て非なるものである。
5 憲法上の緊急事態条項の危険性
少し詳しく、国家緊急権としての憲法上の緊急事態条項について説明しておこう。
国家緊急権とは、「戦争・内乱・恐慌ないし大規模災害など、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権保障と権力分立)を一時停止して、非常措置をとる権限」をいう*7。
国家緊急権は、一方では、国家存亡の際に憲法秩序の保持を図るものであるが、他方では、憲法秩序を一時的にせよ停止し、内閣への権力集中とその強化によって危機を乗り切ろうとするものであるから、憲法秩序を破壊する大きな危険性を秘めている。
大日本帝国憲法には、国家緊急権に関する規定がいくつかあった。天皇は、緊急勅令(8条)を発し、戒厳を宣言(14条)することができ、同憲法第2章の定める臣民の権利についても、「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」(31条)とされていた。憲法学者の樋口陽一によれば、大日本帝国憲法は「非常状況について何重もの想定にもとづく規定を置いていた」のである。
それに対して現行憲法には国家緊急権に関する定めはない。いわゆる緊急事態に際して憲法の範囲内で公権力に一定の措置をとることが許されるにとどまる。現行憲法に国家緊急権の定めがないのは、戦前の濫用の経験や戦争放棄の規定の存在からして「意識的な選択」なのである*8。
憲法上に緊急事態条項を新設することにはいくつかの危うさが伴う。
第1に緊急事態を事前に条文化することの困難であり、緊急事態の認定が政府の恣意に委ねられる危険がある。
第2に総力戦、国際的テロあるいはパンデミックといった絶えざる国際的緊張の時代においては緊急事態が常態化する危険がある。
第3に緊急事態条項は国家の意思決定の仕組みを変更することになる(政府が国会の法律と同等の効果を持つ政令を制定できるようになる)ので、政府の暴走に対する歯止めがなくなる危険がある。
第4に報道の統制、令状なしの逮捕、緊急事態における国民の強制動員などの現行憲法では許されない極めて強力かつ取り返しのつかない人権制限がなされるおそれがある。これらの危うさがある以上、私たちは、現行憲法の「意識的な選択」を続けるべきであるというのが私の考えである。
そのような危うさのある緊急事態条項の新設の提案を、さまざまな人権が制約され、対面のコミュニケーションが大幅に縮減されているこの機に乗じてなすこと自体が筋違いであろう。
まとめ
繰り返しになるが、今、私たちは、公衆衛生と人権といういずれも重要な憲法上の価値の相克の中に生きている。両者のバランスを図りつつ、両方ともを実現することが求められている。どちらか一方を放り捨てるかのごとき安易な議論には注意しよう。
(注)
1. 今回の緊急事態宣言についての憲法学者の論考として『SYNODOS』に4月7日に掲載された志田陽子「『表現の自由』のための自律――緊急事態宣言と『集会の自由』」(最終閲覧2020年4月12日)がある。
2. 本稿で「国民」とは、国籍や在留資格にかかわらず、日本に在住するすべての人を指す。
3. 厚生労働省HP「新型コロナウイルス感染症について」「国内の発生状況」(最終閲覧2020年4月12日)
4. 宮沢俊義(芦部信喜補訂)『全訂日本国憲法』(日本評論社、1978年)271頁。
5. 野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ(第5版)』(有斐閣、2012年)458頁。
6. 緊急事態条項新設の提案は、2012年4月に自民党がまとめた「日本国憲法改正草案」にすでに含まれており、最近になって急に議論になったものではない。
7. 芦部信喜『憲法学Ⅰ 憲法総論』(有斐閣、1992年)65頁。
8. 樋口陽一『憲法Ⅰ』(青林書院、1998年)404頁。
(いしざき まなぶ)1968年生まれ、龍谷大学法学部教授(憲法学)。論文に「精神障害者と憲法――精神保健福祉法を中心に」(日本障害法学会編『障害法』 2号、 107-119頁、 2018年11月)など。著書に『デモクラシー検定』(大月書店、2006年)、『人権の変遷』(日本評論社 2007年)、『いま 日本国憲法は――原点からの検証〔第6版〕』(小林武・石埼学編、法律文化社 2018年)など。