#4 お弁当の圧力
保育園のピクニック遠足を心待ちにしている次男(5歳)から、お弁当のリクエストを渡された。
5歳にしては、非常に具体的で、洗練されたリクエストである。
元々は、
「サンドイッチは卵とハムのやつで、あとハンバーガーと、昆布おにぎりと、ウインナーが入ったパイみたいなのと、りんごと柿とマスカットと……」
という感じのリクエストだったので、どうしたものかと頭を抱えていたのだが、長男(8歳)に「いや多すぎだろ」「野菜とかバランス考えろ」「数も具体的に」とつっこまれ、何度か修正をしたようだった。
アンタ本当に8歳なの……?
夏休みの学童弁当を通して鍛えられ、お弁当リクエスト筋肉が発達した成果なのだろう。一ヶ月あれば、ヒョロヒョロの8歳もムキムキになるらしい。鍛えた甲斐があるというものだ。
楽しい思い出になるよう、基本的にはリクエストに添いたいけれど、言われ通りに作るのは性に合わない。急に「仕事感」が増してしまうからだ。
日々の献立も、お弁当も、大枠だけ決めてあとは当日の気分やバランスで仕上げていくからこそ、作ることを楽しめる。個人的に、料理はいつでも自由型でありたい。人生、何事も余白が必要なのである。
次男のお弁当も、サンドイッチをメインに、あとは当日どうにかしよう、と気軽に考えていた。
しかし、次男からの圧がすごいのである。
「お弁当のリクエストの紙みた?」「たまごサンドは2個ね、あと唐揚げとポテトと……ポテトは細いのじゃなくて丸いやつ(ハッシュポテト)だよ!」と繰り返し念を押されるので、裏切れない雰囲気が漂い始めていた。
自由形では、事故る。これは、事前交渉が必要だろう。
そう悟った私は、サンドイッチの味のバリエーションを提案し、各おかずの個数についてはこちらに任せてもらうということで、圧を弱めることに成功した。
あとは、こっそりサプライズのフルーツサンドを入れて、当日びっくりさせてやろう。
お弁当は、つくづく「対話」だな、と感じる。
「食べきれるものを、食べきれる量で」と、保育園の遠足のたびに担任から伝えられるし、作り手のデザイン設計に責任を求められる側面があるので、顧客(子ども)の理解は必須。
遠足などの突発的な需要ではなく、毎日のこととなれば、食事として守るべきラインは守りたい。相手に寄り添いすぎると、お弁当としての機能を果たさなくなる。
事前に苦手だと把握をしている食材をあえて入れる場合もあるだろう。大胆なチャレンジだけれど、お弁当にしたら食べるかも? という淡い期待が、残されるリスクを上回ることもある。
しかし、一方的にこちらの主張を通そうとすると、あっけなく跳ね除けられる。残されることも想定内なのに、しっかりダメージを受けてしまう。良くも悪くも、愛情が乗っかっている点がややこしいのだ。
きれいに完食してくれてきた日には、いつもよりちょっといいお酒で乾杯したくなるくらい気分が上がる。我が子はなんてかわいくて、愛おしいのだろうと、しみじみ思う。
こちらの愛情を投げかけて、数時間後に返答がくるお弁当。きっと、日々さまざまな葛藤と感情が生まれていることだろう。
お弁当にまつわる苦い思い出がある。
幼稚園時代、お弁当にアスパラベーコン巻きが入っていた日のことだ。私はアスパラが得意ではなくて(今も積極的には食べない)、ベーコンに巻かれた大量のアスパラを目の前に、絶望していた。
筋張った、繊維質の食感が、どうしても無理なのだ。馴染みの薄い青臭さと、バターのくどさが絡み合った風味が鼻に抜けていくことを想像すると、生きる気力も同時に抜けていってしまう。
通っていた幼稚園は、田舎ということもあって、園内に山羊や孔雀がいた。広い畑ではいつも何か野菜を育ていたし、米も育てていたように記憶している。食事の時間は、お祈りのような感謝の言葉をみんなで言ってから、いただきますをした。
自然や生き物を大切に。大地の恵みに感謝。
おそらくだけど、基本的にはお残しNGだったように思う。だからこそ、私は絶望していたのだ。
目の前にあるアスパラを、どうすべきか。
「食べる」or「食べない」で悩んでいたわけではない。「食べない」と決めた上で、いかにして残すかという課題に向き合っていた。
悩めど悩めど、解決方法が見つからない。食べなければ、残る——この圧倒的真理には、どうしたって抗えない。
一緒にお弁当を食べていた友達が、ひょこっとお弁当を覗き込んで「それ、食べないの?」と聞いてきた。
私は本能的に「違うよ!」と答えた。残すことがバレたら、きっと彼女は「先生〜ぐみちゃんがお弁当残してますー」と、悪意なきピュアな報告をするだろう。
苦手なものでもまずは食べてみようとか、一口食べてみたら意外と食べられるかもよ? とか、そんなことを言われて、先生の横で食べさせられるに決まっている。
(今、自分が毎日子どもたちに言ってる気がする……)
元々思考力がないのに、焦ると暴走してしまうのは、昔から変わらない。
パニックになる中、私の口が勝手にスルスルと喋り出していた。
「あのね! これはあの〜……種だから! いっぱいあるけど、種だから、残していいところなの!」
んなわけあるか! と自分自身にツッコミながらも、一度口から出た嘘はいきいきと生命力全開で舞い続けた。
「種なの? ふ〜ん。おっきいね」
アスパラガスは、幼児にとってあまりメジャーな野菜ではない。そのせいなのか、私の熱い舞が功を奏したのか、友達は特に疑うことなく「アスパラガス=種」という奇抜な思いつきを受け入れていた。
そう、これは、種。
だから、残していい。
昔から共鳴力が高く、お腹が痛い人をみると自分も痛くなるし、もらい泣きするし、地方に行けば方言もすぐ移る。
そういうタイプは、自分がついた嘘にも、たやすく騙されるのである。
私は、自ら作り出した歪んだ真理に納得し、堂々をアスパラを残した。
その日持ち帰った弁当箱を見て、母はどう思っただろうか。
ベーコン巻きが、おそらく2本か3本。もしかしたら主菜だったかもしれないおかずを、丸々残したのだ。今の自分が同じことをされたら、やっぱりちょっと、ギョッとするよなぁ、と思う。
中学生のときは、コンビニ弁当に憧れて、あえてお弁当を断ることも多かった。高校生になると、冷食のグラタンやコロッケが入っていないことに憤慨した。茶色いおかずが恥ずかしくて、蓋で隠すように食べたこともある。
母は昔から「料理が苦手だ」「できればやりたくない」と宣言しているから、お弁当作りの負担はかなりのものだっただろう。
彼女の日々の葛藤や、記憶にある対話の話を、一度ゆっくり聞いてみたい。遅すぎる感謝も、きちんと伝えたい。
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「お弁当、おいしかったよ! ぜーんぶ、食べたよ!」
お迎えに行くと、開口一番に、次男が完食報告をしてくれた。
朝、リクエストの唐揚げの残りを出したときは「これじゃない、ささみの唐揚げがいい」と拒絶されて愕然としたけれど、唐揚げもきれいになくなっていた。ありがとう次男、今夜は気持ちよく酔えそうだ。
ルンルン気分で夕飯を出したら、次男は半分以上残した。人生、山あり谷ありである。
【back number】
#1 プリンと、白湯と、修造と
#2 1. 0倍速の失恋
#3 「らしさ」の残骸