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#2 1. 0倍速の失恋

ああでもない、こうでもない——

思考は泡沫。朝キッチンに立ち、ぼんやりと浮かんでは消えていく、日常の思考エッセイの連載です。


キッチンで経験した恋と、失恋。
あのときめきをくれた相手が誰だったのかは、いまだにわからない。


彼の声との出会いは、3人目(娘)の育休中だった。

妊娠がわかると、夫は「……なるほど」と呟き、数秒後に新居を探しはじめた。

新しい家族を出迎えるために購入した家は、東京の外れにある。部屋から都立公園の森林が見渡せて、季節の変化を目で楽しめるので気に入っている。住んだその日から、狭い1LDKでは叶わなかった広々キッチンが、私の新しい城になった。

真っ先に、大きなオーブンレンジを買った。パンも焼けるし、ピザだって2枚同時に焼ける。バスクチーズケーキも作ったし、大きなかぼちゃプリンも焼いた(失敗した)。最高かよ……!

育休中何してた? と聞かれたら、「0歳児の育児」そして「オーブンレンジ」と答えるくらい、日々料理に没頭した。


料理の時間が増えるほど、捗るもの——それは、耳活だ。

最初は「めちゃくちゃおもしろいPodcastポッドキャストがある」と、夫に教えてもらったコテンラジオにハマり、そこからいくつかお気に入りの番組ができて、アーカイブまで遡って聴きまくった。

でも、番組の更新は週に1回程度。多くても2回。毎日何時間も耳活をしていると、あっという間に聴き尽くしてしまう。

アーカイブのストックがなくなると、耳がどうしようもなく暇になった。そこで手を出したAudibleオーディブルで、出会ってしまったのだ——彼の声に。


声を聴いた瞬間、耳に春風が吹いた。

夜の静けさを包み込むように、穏やかで低く落ち着いた知性的なささやき。朝焼けが地平線を染める瞬間のように、言葉を失うほどの声質。

彼の声に呼びかけられ、心の奥底で眠っていたはずのときめきが目覚めたのだ。人生初の推し爆誕である。

いくつものキャラクターを巧みに使い分けるプロフェッショナルな声色は、どれを聴いても惚れ惚れする。中でも、無機質なキャラクターを演じるときのステンレスのような冷たい声が、たまらない。



彼と出会ってから、早朝にパンを焼くことが増えた。
米粉のパンを焼くための1時間を、合法的に耳活タイムにあてられて、朝ごはんに焼きたてパンが食べられるのだから、焼かない選択肢はない。どんな早起きも、どんな家事も、苦にならなかった。

起きる時間はどんどん早くなり、早朝は彼との逢瀬にあてがった。一緒にパンを焼きながら、キッチンで朝日が昇るのを眺める日常。初夏に出会い、ひと夏を共に過ごした。すべてが満たされ、潤う心。

あぁ、私、恋してる!!!


しかし——


とある早朝、いつものように彼の声で一日を始めようとした際に、ふと気づいた。

あれ? そういえば、彼の声を1.5倍速で聴いている……と。

PodcastもAudibleも、効率を重視して、違和感がないギリギリのラインまでテンポを早めて聴いていたのだ。

情報に触れるだけならば、なんの問題もない。しかし私は情報ではなく、彼の声を味わいつくすために、毎日アプリを立ち上げているのだ。最初こそいろんな朗読を聴いたけれど、今は完全に、彼のためだけに、月のサブスク費用を払っている。


それなのに、え?
私、彼の声を、時空を歪めて聴いていたってこと……?

なんという失態だろう。自分が恥ずかしい。

……でもさ、それって、裏を返せば、これから彼の真実の姿とご対面できるってことだよね……?

誰に歪められるでもない本当の彼の声と、改めて出会い直せるってことだよね……? 生声ではなくとも、同じ時空を介した彼の声と。

棚ぼた的ご褒美すぎる。
ミスしてんのはこっちなのに、ありがたや、ありがたや。


何十時間もデートを重ねて、初めてのお泊まりするときの高揚感……いや、一緒に迎えた朝に、自分だけが見ることのできる彼のあどけない寝顔を見るチャンスが、今、目の前にあるのだ。

推しの声を正しく聞かずんば、推しの真価を知るべからず!!!


開こう。真実の扉を——



再生速度を「1.0倍」に合わせる。
再生ボタンを押す指が震える。

初めまして……!

本当の、あなた……!







……ん?





え、ちょっとまって。


えっ!


……え?


なんか、あの……





誰?




耳に吹いたのは、聴き馴染んだステンレスのような冷風ではなく、温もりのある、やたらに湿度の高い温風だった。

1.0倍の彼が、想定外にエロボイスなのだ。ぐっちょりっていうか、ねっとり? ネチネチ? じっとり?

ステンレスボイス、アッチアチになっちゃってる。
1.5倍速だと綺麗に消え去っていた粗い息づかいとか、すんごい拾っちゃってる。耳から全身に、ボイス愛撫が駆け巡っちゃってる。

……やばい、朝5時に耳から摂取していいエロスの適量を超えている!
ちょっとこれ、致死量いっちゃってない? 耳、生きてる? 耳! 耳ーーー!?


誰かーーーー!
救急車ーーーーーー!!

あと除湿機ーーーーーー!!!




いや、嫌いじゃないよ?
正直その「そういうの全然興味ないです」みたいなクールなステンレス対応からの結果的に燃えあがっちゃいましたみたいな工程むしろウェルカムというか普段セクシー0%みたいな人が隠し持ってる変態性に触れた瞬間が一番ときめくというかいいよね朝からっていうのもさ別に勝負は夜だけじゃないっていうか朝には朝なりのよさというかいやいやちょっもなに言わせんのマジでほんとだめ!!ちょ! とりあえずあの、彼の湿度すごすぎん? え? ホントに? あなた誰? 誰なのーーーーー?!

推しーーーー!!カムバァァーーック!!!!




信じ難いことだが、1.0倍速の世界に、推しはいなかった。

倍速で、そんなに声変わることある……?

むしろ0.7倍とかで、今度は逆方向に彼を歪めちゃったのではないかと疑って確認してみたけれど、表示されているのは間違いなく1.0倍速だった。

これが、真実の彼なんだ……。
等身大の、なににも歪められていない、寝起きの彼……。


……そもそもなによ「あどけない寝顔」って。
朗読とかさ、仕事だから。OFFじゃない。圧倒的ON。
1.0倍速の彼の声、特定のオンナだけじゃなくて、日本全国、老楽男女みーーーんな聞いてる。全然特別じゃない。


魔法が、解けた。

真実の愛に触れたら、姫は目覚め、王子は元の姿に戻り、枯れ果てた国に生命力が戻ってくるというのに、私の頬の血色は悪くなるばかり。誰も、1.0倍速の彼と私のあたらしい世界を、祝福していない。


もう、忘れよう、1.0倍速の彼のことは。
個人的な好みで言えば、1.5倍速だった。それだけの話だ。これからも1.5倍速で聞き続ければなんの問題もない。


しかしそれでは、私が恋しているのは、いったい誰?

1.5倍速の彼は、何者なのだろう……?


手を伸ばしても、指先にはなにも触れない。倍速の音声は、ある種の虚像。最初から、そこには誰もいなかったかのかもしれない。

……いや、違う。彼の声にときめいたのは事実なのだ。かけがえのない彼との日々は、誰にも否定できない、大切な思い出だ。


気持ちの整理がつかないまま、彼の朗読を最後まで聴いた。もちろん、1.5倍速で。相変わらず、素晴らしい声だ。この時空には、私が恋したステンレスな彼がいる。

すべてを聴き尽くしてしまったあと、新作はなかなか出なかった。結局次の支払いのタイミングで、私はAudibleを解約した。


キッチンで経験した恋と、失恋。
あのときめきをくれた相手が誰だったのかは、いまだにわからない。

耳に吹いた春風とときめきだけが、遠い記憶の中で、今もかすかに息づいている。



【back number】
#1 プリンと、白湯と、修造と


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