家事が消えた日
「家事」が家出したかもしれない。
家事について考えてみたら、自分の生活から消えていた。掃除、炊事、洗濯、買い物、日々こなしているはずの名もなき作業たちが、どこにも見当たらない。
考えようとすると、概念にヒュルリと逃げられてしまって、尻尾がつかめない。家事は空気。家事は気配。家事は幻——?
いったい、いつ消えたのだろう。
数年前までは、確かにいた。常に生活の中でふんぞりかえっていて、鬱陶しかった。
家族の人数が増えるたび、ここもあそこもと責任範囲の認識が広がるたび、家事の総量はアホほど増える。そんなに堂々と居座るなら家賃ぐらい払ってくれよと文句の一つも言いたくなってしまう。
そもそも家事って、賽の河原すぎるのだ。
やってもやっても翌日にはゼロスタートで「達成感とは」ってなるし、「このタオル昨日もたたんだ気がする……もしかして私、昨日をやり直してる……?」みたいなタイムループ感がすごい。生きているから家事があるのか、家事をするために生きているのかわからなくなって、泣けてくる。
それで、手放した。
そうだ。家出ではなく、私の意思と仕組みで消したのだ。
「た、高ぇー!」とビビりつつ、家事を担ってくれる家電にあちこち投資した。文明の力を大いに活用すると同時に、文明が及ばない家事についても暇を出し、頻度の高い家事については仕組みを変えた。
今は、日常の範囲内で、家事だと意識せず心地よくできることしかやっていない。
日常に紛れ込ませられる家事の許容濃度は、人によって違う。夫は明らかに私よりも濃く摂取できるし、特に私が苦手なリセット系が得意だ。
私は作り、生み出し、夫はリセット。このバランスが取れてきてからストレスも減り、家事の存在感がスーッと消えていった気がする。
視力の悪さも一役買っている。私は両目の視力が0.02なので、家でつけるメガネは疲れないようあえて少し度数を落としたものを使う。そうすると物理的に、細かい汚れが見えない。見えないので、日常から消せる。
「見えぬものでもあるんだよ」って某みすゞさんに言われそうだけど、そこはなんとか見逃してほしい。
そうはいっても、おとなしく日常に紛れていたはずのものたちが急にニョキっと存在を主張してきて、いつかは無視できなくなるタイミングがくる。そんなときは、特別対応が必要だ。
風呂を完璧に掃除したり、冷蔵庫の引き出しから化石化したかつて食材だったものを撤去したり、季節ごとに増えていく兄弟のお下がりようの衣類の整理したり、ベランダの鳩のフンを完全抹殺したり、デスクに積み重ねられた書類やら子どもの絵やら本棚に収まりきらなくなった本やらを整理したり——
そういう「日常」を逸脱した家事は、もはやイベントだ。やる気が満ちたタイミングでやるから、パワー100%で一気に撲滅できる。
いつもと違うことをしていると、子どもたちも寄ってくる。「じゃあその床の黒ずみゴシゴシして1番雑巾真っ黒にした人優勝〜」なんつって雑巾でも渡せば、大喜びでやる。
夫も「あれ、今日は頑張る感じ? なら俺も」と、放置していた粗大ゴミの予約をとってシールを買って貼って出してくれたりする。
イベントを通して、キレイと達成感が手に入るのだ。そんな風に楽しめるのも、普段サボっているからこそである。なんとも希望があり、喜ばしいことである。ぜひ日常は控えめにしておき、活力がみなぎったタイミングで爆発させよう。
イベントの活力をブーストしてくれるアイテムを、ひとつ紹介したい。
これ。あっちこっちふきん。
めちゃくちゃいいの。
要はマクロファイバーの雑巾でしょ? と侮るなかれ。水に濡らし、かたく絞って拭くだけで、蛇口や窓がたちまちピカピカになる。「あっちこっちふきん」は、家事をイベント化する最強の助っ人だ。
チリツモ汚れ一掃系は、かける工数に対して得られる満足度がめちゃくちゃ高い。蛇口は10秒、窓は30秒でキレイになる。もちろん洗剤、二度拭き要らず。やる気があるうちに絶対にやり切れる。
「お前んとこの日常はそれで大丈夫なのか」と引かれる覚悟で晒したが、アフターのすっきりピカピカ具合に共感いただければこれ幸いである。このふきんがあれば、むしろ日常逸脱系の汚れを楽しみに待てるので、ぜひ手元に置いて活用してみてほしい。
10秒なら日常に組み込めるのでは? と思われるかもしれないけれど、これはあくまでもイベント扱いだ。日常に紛れ込ませている家事は今定員オーバーなので、10秒だろうと順番待ちしてもらう。
10秒の負荷が心理的に0になる日が来たら、晴れて日常スタメン家事として採用してやろうと思っている。
(1972字)