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5歳の疑問を迷宮から救い出すために勇者になった話


「 ”ヌグー” って、なに?」

休日、家族でドライブをしているとき、後部座席から突然5歳の次男が話しかけてきた。

「脱ぐ」のアクセントではなく「土偶」と同じアクセントだった。


”ヌグー” ? なにそれ。こっちが聞きたい。
日本語に、そんな単語あったっけ?


後部座席を振り返ると、次男は夫のiPhoneを握りしめ、Bluetoothで車内に流しているDISH//の『猫』の歌詞を目で追っている。

週末車でお出かけするときは、子どもたちがApple Musicで好きな歌を選んでかけるのが、我が家のスタイルだ。

ハマっている歌は、もう、うんざりするぐらい、何度も何度もかける。それはもう、永遠かと思えるほどに、かけ続けるのである。

そういうわけで、今日はもう何度目になるか分からない『猫』を聴いていたのだ。

流行ったのは少し前だけれど、クラスの子が口ずさんでいたとか、読んだ絵本のテーマにちなんで先生が軽く歌ったとか、なにかをきっかけに覚えたのだろう。


……ははぁ、歌詞でなにか聞き間違いをしたのだな。

”ヌグー” なんて日本語は聞き慣れないし、斬新な単語は『猫』にはなかったはずだ。

いったいなにと勘違いしたのだろう?


私は次男が見つめていたiPhoneを借りて、『猫』の歌詞を上から下までざっと見た。出てこい犯人。


あ、これ……?


「ケガしてるならその傷ぬぐうし」の ”ヌグー” かいな。

※該当箇所から視聴できます

確かに「ぬぐう」は耳慣れない単語だ。5歳の日常にはあまり出てこない。

そもそも「ぬぐう=拭う」って書くんだ。カーチャンも初めて知ったぞ。


「はいはい『ぬぐ』ね! これはあれよ、えーっと、傷とか血とかあるじゃん、それをさ、こう……なんていうか、さっと、拭きとるときにさ、拭くっていうか、あの、えーっと……」


簡単に説明しようと思ったけど、これが意外と難しい。なんせ、説明していると「」がチラつくのだ。

ぬぐう」と「く」の明確な違いが分からない。
近しい概念だけど、次男の疑問に対して「く」ってことだよ、と簡単に答えていいものなのか、悩ましい。

そもそも「ぬぐう」と「く」が同じ漢字であることが余計に事態をややこしくさせる。


説明を諦めて携帯で調べてみると、そこには迷宮が待ち受けていた。


出典:デジタル大辞泉(小学館)


ちょいちょい、辞書さんよ。
説明(ふいてきれいにする)にく」が含まれとるやんけ。

だめだよ、「く」との違いが知りたいんだから。説明に「く」があったら、説明になってないのよ。説明放棄しちゃってんのよ。


……そう、「ぬぐう」と「く」は、単語ラビリンスに閉じ込められていたのだ。

一歩踏み込まなければ、存在にすら気づかぬ迷宮だ。30年以上生きてきて、まったく気づかなかった。


一度知ってしまったら、もう知らなかった自分には戻れない——。


私のなかの勇者が、刀剣をスッと携える。


進もう、迷宮の奥へと!!


「拭う 拭く 違い」
と呪文を唱えると「ぬぐう」と「く」の二人とはすぐに会えた。過去の冒険者たちによって、迷宮の道がめちゃくちゃ整備されていたのだ。

「あれ、新しい勇者?」「いらっしゃ〜い」ってな感じのテンションで、普通にその辺にいた。ドラゴンとか倒すタイミングもなかった。


拍子抜けするほどあっさりした着地だったけれど、二人の関係性、そして存在の美しさに、私は思わず目を見張ってしまった。

「拭く」は、汚れの付着しているものをこすってきれいにすることにいい、「拭う」は、汚れそのものを取り去ることにいう。

『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』(小学館)


なんて明確な棲み分け……!!

非常に明確で、疑問が100%解消される美しさである。


しかもさ、

「汗を拭く(拭う)」のように、汗、涙、よだれ、はなみずなど、人間の体から出るものには両方用いられる

再びの『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』(小学館)

つって。


そうだよね!
涙とか汗とかさ、「ぬぐう」と「く」もどっちも使うよね!!
でも、「傷」は汚れじゃないし、こすってきれいにするものじゃないから、「ぬぐう」を使っているんだね!なるほどぉぉ!!

作詞をしたあいみょんは、かつてこのラビリンスを攻略した勇者だったに違いない。だからこそ、捨て猫の傷を「さっと拭く」のではなく、まるごと消し去るという意味で「ぬぐう」を使ったのだろう。


双子のようでいて、きちんと別人格がある「ぬぐう」と「く」。
それぞれの人生があって、でもこうして互いに関与しながら自らの使命を生きている。

あぁ、二人はどんな生い立ちなのだろう。どんな幼少期を過ごして、どんな恋をして、今、こうして笑顔で勇者たちを待ち受けていたのだろう。俄然、彼らに興味が湧いてくる。

きっと、紆余曲折あったはずだ。さまざまな葛藤、そして感動が——


来年の朝ドラ、連続テレビ小説「ぬぐうとく」がいいんじゃないかな? 花子とアン的な感じで。

視聴率、ぶっちぎっちゃうよ。みんなさ、知りたいと思う。日本語ラビリンスに溺れたいと思う。



あまりの目から鱗感に、私は鼻息荒く運転席の夫に「ぬぐう」と「く」の違いを解説した。
(次男、置き去りにしてごめんな。)

夢中の解説も虚しく、夫は微動だにしなかった。

コミュニケーションにおける非常に大切な概念 “リアクション” を、完全に放棄していた。
首が動かないどころか、口元から「フゥン」「あぁ」「へぇ」みたいな空気を漏らすことさえなかった。

無風。明らかなる無風。

「動かざること山の如し」を完璧に体現していた夫。山役なら、満場一致で最優秀主演男優賞を受賞しているだろう。

もはや山の方が、もうちょっとそよ風とか吹いてるんじゃない?


うん、うん。OK。
私たち、別の惑星の住人だから、OK OK。通常運転である。身近に理解者がいないからこそ、noteの筆が進むというものよ。

現実の運転の方は引き続き安全にお願いすることにして、私は再度次男に向かって説明した。

ややこしくなるので、結果的には「く」みたいなことだよ、傷をさっと拭き取ってあげるっていう意味だよ、とまとめた。

彼には日本語における「ぬぐう」と「く」の絶妙な楽しみ方を味わう前に、まだまだ冒険すべき世界がたくさんあるのだ。

ゆっくりでいい。あちこち楽しんでから、いつかまた会いに来ればいい。「ぬぐう」と「く」の二人に。


まったく、言葉の迷宮とは、奥深く魅力的なことこの上ない。迷い込むたびに魅了される。

次はどんな迷宮に導かれるか、楽しみである。

※『猫』におけるこの “傷” が概念的なものか、シンプルに出血を指すかは今回検証しないので、悪しからず。
出血の場合は「人間の体から出るもの」だから、ワンチャン「く」もいけちゃう可能性ありますね。




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