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火星の海岸に打ち上げられたイルカたち
来てから気づいたのでは遅かった。どんなに手取りがいい仕事でも、お金を有効に使えなければただの奉仕だった。
「昔は本を買っては読み漁っていたものさ」と髭もじゃのロンは自慢した。「どんだけ小遣いがあっても、本屋に行っては面白そうな本に使ったさ。読んでなくても本屋に定期的に通ったものだ。それがどうだい。火星には一軒も本屋がない」
ロンは読書という楽しみを失い、その代償に火星での過酷な開拓作業に体力を消耗していた。毎日がへとへとでくたくたで、共同住宅に帰ってシャワーを浴びれば、酒を飲んで寝るだけだった。
「どんな本を読んでたんだ?」と俺はロンに訊ねた。
彼の顔がパッと明るくなって、その見慣れない表情はロンでない俺の知らない誰かだった。彼はさまざまな作家の名を挙げた。文豪と呼ばれる昔の作家もいれば、名前を聞いたこともない新しめの作家もいた。一番のお気に入りはカート・ヴォネガットだと、彼は照れながら言った。「あいつはまともなくせに、飛びきりぶっ飛んでる」らしい。
「振込先に貯まっていく金額を見ていると、最近じゃ虚しくなっちまう。数字がまるでお金じゃないみたいなんだ」
俺はその言葉に頷いていいのか正直ためらった。仕事をしているときのロンは、誰からも信頼される働き者だった。どんな面倒な作業でも、たとえば百メートルの溝を掘るとか、千本の杭を打つとか、数十エーカーの荒れ地を掘り返すとか、面倒な作業をとにかくなんでも引き受けた。それなのに、プライベートでの彼には何を言い聞かせても無駄だと匙を投げたくなるほど、気弱な一面があった。
「俺の持ってる本、今度貸そうか?」と俺は慰めるつもりで言った。
「よしてくれ」とロンは頭を抱えた。「今のおいらには、もう読む気力もなくなっちまった」
「済まない」とお互い謝って、その気まずい空気を払拭しようと努めた。だが、二人の間に立ち込めている湿気た空気は、今はこれ以上消えそうになかった。「明日は朝早いから帰って寝る。また遊びに来る」と言い、俺は立ち上がった。ふと窓際に書きかけの紙があるのを目にした。鉛筆でびっしりと書き込まれた、数千枚にも及ぶ分厚さの束だった。
「それは俺の見る幻さ」とロンは諦めたように告白した。「よかったら今度読んでくれ」
「いいとも」
悩んだ挙句、入手できない本の代替物としてロンが書き上げた物語だろう。買うわけでもなく買われるわけでもないその膨大な原稿は、ひっそりと机の上を占領していた。どんなに読みづらい文章だったとしても、支離滅裂な構成だったとしても、読者を想定していない彼にとってはどうでもいいはずだ。彼にとって、読めなくなっても、語るべき何かがあること自体が大切なのだ。
帰り道にその物語を想像してみた。ふと目にした「火星の海岸に打ち上げられた一頭のイルカ」という文章が、ずっと心に引っ掛かって離れなかったからだ。