ダニエルの日々
「おはよう」と初老のダニエルは言った。そこには誰もいなかった。
とても寒い火星の朝は、澄み切った青い空をしていた。いつもと同じ変わらない天候だった。
今日こそ、この乾いた一帯に雨がもたらされるに違いない。ダニエルにはひとつも根拠がないにもかかわらず、雨のことを頑なに信じた。誰からも変人と指差されるダニエルが、その日の天候をどう予想しようと、誰も構うことはない。誰も彼のSNSに関心を払わない。
ダニエルは自分用のマグカップと、もう一つのマグカップにとびきり熱いコーヒーを注いだ。「ミルクはあいにく切らしてるんだ」と彼は誰かに詫びた。部屋の中はしんとして、どこからも返事はなかった。
ラジオから流れてくるのはキュルキュルというノイズと、たまにキャッチする地球の電波だった。地球上では陽気な音楽が途絶え、やたらとニュース原稿を読み上げてばかりいた。
もちろん、ダニエルはその理由を知っていた。
*
「眠りすぎた小鳥」の歌を口ずさみながら、ダニエルは双眼鏡を砂漠に向けた。この世界で誰も知らない歌だった。
眠りすぎた小鳥(ああ)、傘をさして待つよ(うう)
カンカン照りの日の、ある朝の出来事
誰も知らない木陰よ
何十年も楽譜のないまま、彼はこの歌を口ずさみ、ずっと記憶し続けた。彼がこの世から居なくなると、その存在さえ証明できなくなる歌だった。
火星から観測する地球も、その歌とあまり変わらない。どんなに創意工夫を凝らしたとしても、誰もが宇宙に対して寡黙だった。
もちろん、ダニエルはその理由を知っていた。
*
「さよなら」と老いたダニエルは言った。周りに感じる気配は時と共に増した。
火星に訪れる夕暮れは、急に表情を変える。さっきまで煌々と輝いていた太陽なのに、地平線近くまで来ると他人行儀になる。ついさっきまでの熱さもは失われ、どこか目を逸らす不寛容な人を連想させた。
その日も降らなかった雨を惜しむこともなく、ダニエルはSNSに「今日モ雨降ラズ」と書き込んだ。なおも彼の周りに集まってくるぞわぞわする気配は、家具をカタカタと揺らした。
目の老いたダニエルは、もう夜の景色を眺めることができない。昼の世界だけが、彼の世界だった。夜景を失って悲しかったけれど、すぐに彼はあることに気づいた。目を閉じれば、見えていなかったものが現れた。彼がノートにびっしり書き込んでいた観察日記は、そこから生まれていた。
「さよなら」とダニエルは何度でも言った。いつ世界が閉じたとしてもいいように、彼は準備を怠らなかった。もし彼の命があと百年続いたとしても、その習慣は変わらないだろう。
もちろん、ダニエルはその理由を知っていた。