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朝早く起きるために目的は必要か?(ドー)

朝早く起きれたらいいと思う。

清々しく、陽の光を浴びながら近所の公園でも散歩したり、川沿いを散歩したり、図書館で物書きしたり、スタバで優雅に作業ができたりしたらどんなにいいだろうと思う。

いわゆる「朝活」というやつである。

しかし、これがなかなかできない。それはなぜか。朝起きたいという欲望や感情が弱いからである。

何に対して弱いか。「眠いからもう少し寝ていたい」という欲望に対して弱いのである。しかし、これは実は違うと思っている。なぜならそもそも眠くなければ早く起きてしまうからだ。

つまり、こうだ。

「朝早く起きるにはもう寝る準備を始めたほうがいいのだけれど、今(夜)にやりたいことがある。スマホをいじったり、面白いところで止まっていた本を読んだり、はじめてしまった武術の練習をしたり、仕事の続きをしてしまったり、色々考えたり、など。こういったことをする欲望が、明日の朝早く起きたい、という感情より弱い」のが原因である。

そもそも、朝早く起きたければ夜早く寝るはずであり、十分な睡眠時間を確保していれば、「眠いからもう少し寝ていたい」という欲望は発生しない。つまり、勝負は夜に始まってる。

22~24時ぐらいの間に、今してしまいたいことと、朝したいことの欲望が戦っているのである。そして、たいていの場合「今したいこと」の方が、未来の欲望よりリアリティが強いので勝る。だから、ダイエットも難しい。

では、どうすればいいか。

夜にしたいこと以上に、したいと強いリアリティのもと感じられる習慣を朝に持ってくればいい。リアリティはどうやって感じるか。

実際に朝やってみて体験するしかない。「これはいい!」と。夜Aをやるより、朝Bをやった方がはるかに楽しい、と。身体に覚えさせるしかない。

あるいは強引に朝、人と約束をして用事を作り出す、ということも考えられる。しかし、たいてい朝活は一人でなんとかできないからみな困っている。ここでは一人で可能な方法について考えている。

朝に楽しいという感情を呼び起こしてくれる活動を配置すること。

自分なら美味しい食パンにカルピスバターを塗って食べる、というのが至福である。オートミールやナッツやらバナナやら健康志向で考えてみたが、それらは夜の欲望に勝てない。まず、美味しい朝飯を用意する。これがトリガーとなる。

とにかく、夜に勝てる楽しさを朝に配置する。これである。「健康」という理性だけで感情は動かない。哲学者スピノザも言っている。人が動くのは理性でなく感情によってである、と。

たしかにそうだ。人が理性を原因にして動けるのであれば、この世界の多くの不幸は存在しない。それと同時に多くの喜びも存在しない。

私たちは、朝早くに起きたいのだけれどもどうしても起きれない、というあり方のうちに、悲しみも喜びも携えて生きているのである。

ならば、生きよう。朝早く起きれようが、起きられなかろうが。楽しいことができればいいじゃないか。

朝にしようが、夜にしようが、楽しければそれでいいのだ。夜にのってきて素晴らしい音楽が生まれるのに、朝早起きするために眠らなくたっていい。夜にスマホをいじりたくても、それより朝カフェで勉強した方が楽しいのなら、スマホなんていじらなくたっていいのだ。

すべての目的は、楽しく生きる、ということである。

そのための手段として早起きがあるのであって、その逆ではない。楽しく生きるにはどうしたら考えてみることが先決である。

そして、楽しいことが見つかって、それは夜ではなく朝やった方が楽しい、となって初めて勝手に、自動的に早起きできるようになる。

つまり、朝早起きするのに目的は必要かどうか、という点に関しては必要だとも言えるし、ナツの言うように「とにかく起きてしまえばいい」とも言える。

そもそも朝型の人は勝手に朝早く目が覚めるが、彼らに目的はない。ただ目覚めてしまうのだ。身体がそれを求めている。だから、起きる。

夜型の人間も同じだ。夜、ただ目覚めていられる。だから、起きてその間楽しいことをする。身体がそれを求めている。

これらをハイブリッドすれば、こうなる。

人は自分の身体のリズムに合わせて、楽しいことを見つけていくうちに、持続可能な楽しい毎日を送っていくことができる。

朝早く起きるか夜寝るか、酒を飲むか飲まないか、タバコを吸うか吸わないか、車を運転するかしないか、太るか痩せるか、ゲームに没頭するか、制作に命を捧げるか、のほほんと生きるか、何かを守るために戦うか。

それらは二の次の命題である。

ドー

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