楽しかった、という記憶
ポジティブなものとして扱われがちな「楽しかった」という記憶に縛られて動けなくなることがある。
と受け入れてしまえば、行動を変えられるかもしれない。という話。
モノの断捨離をする時──例えば本棚に並んだ書物をなんとかしようとした時に、つい中を読んでしまうと面白さがぶり返して捨てられず、部屋に書物が平積みされただけで1日が終わった……という話を良く見聞きする。
それを防ぐにはとにかく「中を見ない」。これに尽きる。表紙だけを見て要る・要らない、保留と分ける。自分の直感を信じればいい。
処分したのち再び必要になったら、また入手すればいいのだ。
(再入手困難なモノはそういうご縁だったのだと割り切るか、メルカリで探すか……)
これと同じように考えたいのが「場所」と「人」。
勿論モノと同じようにはいかないし、モノのように扱えと言っているのではない。
しかし、モノじゃないんだから!と、がんじがらめになっている必要もないと思うのだ。
今の生活様式になって2年近く。それまで行きつけだった場所に行けなくなった人も多々だろう。
でももしかしたら、これをきっかけにその場所との関係を絶って、依存から解放された人もいるかもしれない。
例えばギャンブルとか。
勝った成功体験、楽しかった思い出などから止めよう止めようと思いつつ止められなかった人は今、スッキリしているかもしれない。
人もそうで、会うとモヤモヤが残ることが多いのに、たまにある「今日はモヤつかず、純粋に楽しかった!」という思い出に縛られてなかなか絶てなかった関係を、この現状を逆手に取って少しずつ距離を置いたら、いつの間にか「いなくても大丈夫な人だった」となることもあるだろう。
こちらがそう扱われることもあるだろう。
楽しかった記憶にはきっと種類がある。何も迷わず残したい部類は大切に保管すればいい。でも少しでも迷いや後ろめたさがあるのなら、思い切ってまずは1時間だけ距離をとってみてはどうだろうか。それが出来たら今日1日。それも出来たら明日も。そうこうしてる間に1週間。2週間。1ヶ月。となって行くかもしれない。
もし禁断症状が出て来たら、私だったら蒙古タンメン中本を食べる。筋トレをする人もいるだろう。ひとりカラオケでもいいし、仕事や勉強に打ち込むとか本屋さんに行くとかカフェに行くとかでも。家事に燃えても良いし、子供と全力で遊ぶとか。そうしてる間だけは離れることが出来ていると自分を認める。その積み重ねでいいと思う。
とにかく、少しでもモヤついたり後ろめたさを感じることを、楽しかった記憶や得た実績などで美化してはいけない。モヤつきを感じる自分を大切に。大体そっちのほうが正しい。そうでしょう?
そして、今まで離れられなかった自分を責めずに。それがあったから今日の自分がいるし、今日の気付きもあるわけで。
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