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『マッスル・シフト』 エピソード 0

西暦20XX年、人類はついに「完全デジタル社会」を手に入れた。
もはや、実際のオフィスに通勤する必要はない。誰もが「デジタルワークスペース」と呼ばれる仮想空間で働いている。通勤ラッシュも、オフィスでの人間関係のストレスも、過去の遺物となった。

メタバースでの仕事は、驚くほど効率的だった。AIアシスタントが24時間体制でサポートし、データ分析から意思決定まで、ほとんどの業務を自動化。人間の仕事といえば、最終確認のボタンを押すことくらいだ。

学校も完全デジタル化された。子どもたちは自宅から「バーチャルスクール」に通い、個々の理解度に合わせたAI教師から学ぶ。体育の授業も、VRゲームのような形で行われる。運動量は確かに確保されているはずだった。
買い物は完全自動化。冷蔵庫のAIが在庫を管理し、不足した食材を自動発注。ドローンが玄関先まで配達する。料理も3Dプリンターフードが主流となり、包丁を持つ必要すらなくなっていた。

しかし、この「理想的な未来」に、最初に警鐘を鳴らしたのは医療界だった。

世界保健機関(WHO)が発表した衝撃的なレポート「デジタル依存と人類の退化」は、社会に激震を走らせた。
報告によると、完全デジタル社会への移行からわずか5年で:

  • 20代の骨密度が70代並みに低下

  • 10代の握力が乳幼児レベルまで低下

  • 实筋量の減少により、免疫力が著しく低下

  • うつ病発症率が400%増加

  • 新型の「デジタル認知症」が蔓延

特に深刻だったのは、出産の危機だった。妊婦の体力低下により、自然分娩できる女性が激減。帝王切開が標準となり、出産そのものにリスクが伴うようになった。

さらに、乳幼児の発達にも異変が。実体験の不足により、手先の器用さや空間認識能力が著しく低下。「積み木が積めない」「縄跳びができない」子どもたちが増加の一途を辿った。

企業でも異変が起きていた。
バーチャルオフィスでの業務は効率的だったが、イノベーションが枯渇し始めた。新しいアイデアは、偶然の出会いや、実体験から生まれることが多い。デジタル空間での計画的なミーティングからは、革新的な発想が生まれにくかった。

シリコンバレーの著名な起業家たちが、自社製品の弊害を公に認め始めた。「人類に必要なのは、もっとアナログな体験だ」という発言が話題を呼ぶ。
社会の歪みも深刻化していた。
「リアル恐怖症」という新しい症候群が若者を中心に蔓延。実際の人間との対面を極度に恐れ、外出できない若者が増加。結婚率は過去最低を更新し続け、少子化に拍車がかかった。
皮肉なことに、メタバース内では活発なコミュニケーションが行われていた。しかし、それは「アバターという仮面」を通してのもの。本当の自分を見せることができない若者たちが増えていった。

警察も新しい課題に直面していた。
バーチャル空間での犯罪は、AIが99.9%の確率で未然に防止できる。しかし、実社会での些細なトラブルが暴力事件に発展するケースが急増。「コミュニケーション能力の欠如」が主な原因とされた。
経済界にも変化の兆しが見え始めた。
デジタル化で生産性は向上したものの、人間の消費意欲は減退の一途。「バーチャルで満足」する人々に、実物の商品は売れない。GDPは右肩下がりを続けた。
アメリカの某経済誌は、この状況を「デジタル・デスパイラル」と名付けた:

  1. デジタル化による利便性向上

  2. 身体能力と実体験の減少

  3. 実世界への恐れ

  4. さらなるデジタル依存

  5. 人類の身体能力のさらなる低下

各国政府も対策に乗り出したが、効果は限定的だった。 「1日30分の運動義務化」も、VRでの運動で済ませる人が大半。 「実際の公園での遊び推進」も、危険を恐れる親たちの反対にあう。

そんな中、転機となったのは、ある軍事演習での出来事だった。
完全自動化された最新鋭の軍事システムが、突如としてダウン。手動での対応が必要となった緊急事態で、若手将校たちは基本的な行動すらままならない。銃を持てない。重い機材を運べない。長時間の徒歩移動に耐えられない。

この事態を重く見た軍部は、「人類の身体能力の低下は、安全保障上の重大な脅威である」との報告書を提出。これが、アメリカ政府を動かす決定的な要因となった。

世界経済フォーラムでも、「人類の存続に関わる危機」として、デジタル依存問題が取り上げられた。
医療専門家は、このままでは50年後には「歩行」すら危うくなると警告。 人類学者は、「このままでは、人類は退化の道を辿る」と指摘。 心理学者は、「実体験の欠如は、人間性の喪失に直結する」と警鐘を鳴らした。
そして、この危機感は、やがて「筋肉」という新しい価値観を生み出すきっかけとなっていく。

人類が直面した「デジタル・クライシス」は、皮肉にも、最も原始的な「筋肉」への回帰という解決策を導き出したのだった。




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