毎日「楽しかった」で締め括れないので。
毎日が「楽しかった」と締め括れる1日の地続きだったとしたら、きっと死ぬまで目抜き通りのど真ん中を大股で歩くような気分に浸れるだろうけど、楽しいことは、手招きすら面倒臭がるやつらのもとにはやってこない。
悲しいけれど、朝早く起きて、満員電車に揺られて、キャパシティを越える仕事量をテトリスやぷよぷよのように消して消して、消しきれなくて居残って仕事をして、帰ったら何にもできなくなっているような、そんな日々には、「楽しみ」のやつらも住み着かなくなる。
安物のデスクに、ビールの空き缶が突っ立っている。寝る前の酒もあまり効果がなかったから、手元で村上春樹の「風の歌を聴け」を開きつつ、こうして中身のない散文を並べている。「風の歌を聴け」は自分の書きたい潮流の文章であり、これから何度も吸い尽くすように読み込むことになると思う。
その勉強じみた読み方が楽しいかどうかと問われると、曖昧に首を傾げるしかないのだが、脂の乗った文章を捻り出せると脳汁が溢れることは経験済みなので、そのためだったら勉強のための読みは惜しまない。
「楽しみ」の話に戻る。僕の尊敬する同期∧友人が残した「楽しみを待っているんじゃなくて、楽しみは自分から進んで取りに行くもの」という言葉を時折思い出しては頭の中で反芻する。一言一句違わずに覚えているわけではないが大体そんなニュアンスだったような気がする。楽しみに対する能動性が人一倍ある友人の言葉は、楽しいものに向き合おうとする姿勢を変えてくれたし、楽しいものすら避けてしまうくらい疲れた僕に喝を入れてくれる。
そういえば年明けに引いたおみくじで「待ち人来ず」と書かれていたのを思い出す。待っていたって仕方がないので、仕事の合間合間で楽しい週末用のテトリスを組み立てていくことにした。小旅行もいいし、のんびり読書もいい。ちなみに今は早く小説の本文が書きたいという気持ちが勝っている。
書きたい、という気持ちと、書かないと、という強迫観念が私の動力だ。
春の夜の、まだやや肌寒い地下鉄のホームで「このまま小説書けなくなるんじゃないか」と頭によぎったときほど、底冷えしそうになることはない。というか、日記を書いている理由の1つは、文章と向き合わないと正気が保てなくなってきたからだった。頭ん中でぐるぐる渦巻いているものを1つ1つ言語化する、切り崩していくことで後腐れない明日を迎えることができるから日記はおすすめだ。おまけに文章作成への抵抗力もなくなる。
眠くなってきて、文章の流れが曖昧になってきたので日記はここまでとする。なんにせよ、「楽しみ」ってのはこっちから求めればすんなりと近寄ってきてくれるので、ちょっと面倒臭いな、怖いなってときこそ踏み出してみるのはアリだ、大アリだ。なんて。自分を棚に上げて言ってみる。