訪れるべき場所。
事前に思い描いていたイメージが、百聞は一見にしかずで実際に目にして打ち砕かれ、ギャップの大きさに打ちひしがれることがある。どちらかというと胸躍らずがっかりの比率が多いのは、夢みる乙女チックな妄想がすぎるからだと思われる。
道後温泉は、てっきりきゅっとちんまりまとまった山あいの狭い平地に居座る、忘れられそな匿われた温泉街だと思っていた。街から見れば隔離の極地、ひっそり在るようなちんまり立地、その分味の濃い温泉地だと思っていた。電車に揺られてゆらゆら出向かねばならぬ、ちと不便で不思議な僻地、路地に入り込むようにして進まねば届かぬ別世界。可もなく不可もない距離の、だからこそ不安定で掴みづらく見つけにくい、崖下に宙ぶらりんとしがみつき、半身を隠したような温泉地であるのだと。
ところが訪ねた道後温泉は、大きな街と隣り合わせ、いやむしろ都市と陸続きでその一部として鎮座していた。孤立感もなければ鄙びた感もなく、僻地然としたないことが当たり前の不足感もなく、土産屋は立派だし、巨大なからくり時計が来訪者を圧倒するし、電停は駅舎を備えたターミナルに仕立てられてるし、過ぎるほどのあることづくし。旅館はひしめいているは、温泉施設も複数あるはで、ゆるりと眼科に広がる松山市街地まで見渡せる豪奢な郊外リゾートだったのでした。
当初描いていたイメージどおりだったのは、かろうじて山裾という1点においてだけで、その他はことごとくオセロのコマのようにひっくり返されていったのでした。
もっと小さな温泉街であって欲しかったなぁ。大きすぎると捉えどころがなくなって、行って来た感が半減する。知ってきた感が欠乏する。だって「あなたは私のほんの一部しか見ていない」と、真実を突きつけられることになるんだもの。
触れる前に描いていた意のとおりでなかったことに失望はなかったよ。裏切られた感じもしなかった。最初から嫌いになれるわけがないじゃない。だから受け入れるには余りある大きさに圧倒されながらも、そのすべてを受け入れるにはあまりに偉大すぎて受け止め切れるものではなかったにせよ、受け入れられる分だけだけど、ありのままを受け止めてきたよ。素の道後温泉をね。だってずっと憧れていて、いつかは行ってみたいと思っていたところだったんだもの。
別れ際、じゃあまたね、と再訪を気軽に約束できるほど道後は近くにありはしない。だからといって、次回はいつ来れるかなと畏れるのは辛かった。どうしても訪ねたかったところだったから、行って満足したこともある。だけど、次回も道後、という選択はない。ほかに行かなきゃならないところがあるんだもの。
思い描いていたものと違うそのギャップは、ある意味心眼を開かせる異次元通路。その開眼は、開く分だけ豊かになれそうな思いがする。きっとこれからも必要な行為のだと思う。
自由気ままに身勝手に思い描いたイメージがまだ山ほど残っている。それぞれをすり合わせしていかなきゃならない。
目はこれからも開かれ続けなければならない。異次元通路を選んで、その扉を開いていかなければならない。心がそれを望み始めたんだ。
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