テレビは取り残されている。
ハーメルンの笛吹き男に連れていかれたわけじゃあるまいに、ドリフがテレビからその身を隠すようになってから、お茶の間から団欒が消えていった。ドリフが団欒を連れていっちゃったんだね。
いいな、連れて行かれた人たちは。きっと毎日、全員集合の舞台を前に、お腹抱えて笑ってる。
高度成長期に突入しようとするころ、テレビは雲の上の存在だった。白黒ブラウン管でさえ垂涎の的だったのに、カラーテレビとなると崖の上に咲く、危険を冒さにゃ採れはせぬ、可憐な一輪の花だった。誰があの娘を射止めるか、今買わなきゃ誰かにさらわれ、いなくなる。買わなきゃ。買うなら、今でしょ、と気を揉みながらも振った財布からこぼれ落ちる小金じゃ足りなすぎた。
それが今じゃ、お茶の間テレビは雲の上の存在からお蔵へまっしぐら。スマホ1機買うよりもお手軽価格になったとて、宣伝に踊らされるオマヌケさんはもういない。家族ひとりひとりに1台なんて、無用の長物、要りはせぬ。誰もお茶の間に集まってきやしないほど、見向きされなくなっている。テレビはお茶の間に取り残されている。
今じゃ家族が集う茶の間より、テレワークで映える自室がなにより大事。家族で話すより、ヘッドセットで結ばれたダンジョンを行く通信仲間とつながるほうこそ日々の暮らしの命綱。
テレビは取り残されている。
観なくなったわけじゃない。
たまに、観るよ。
茶の間にあるよ。それでも団欒の中心にいるわけじゃない。
テレビは今、うちの飼い猫より眠っている時間のほうが長くなっている。
ちぃっと、寂しくもある。
団欒は、どこに行っちゃったんでしょう?
かくなるうえは、神頼み。
ドリフ、帰ってこないかな。