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その据え膳、食う? 食わない?

 据え膳食わねば男の恥というが、先達による十把一絡げ的な助言を言い訳に、軽率にコトを起こしてはならない。過去、三四郎は確かに据え膳を差し出した女に恥をかかせ「意気地なし」と罵られたが、振り返って沈着に分析すれば、それはそれで結果オーライの最善策だったことが判明した。もし箸をつけていたら、物語は成り立たぬ。少なくとも漱石は、女の度胸と手強さ、愛想尽かしの即断性、そして男の躊躇癖と不断性というかつてより存在していた本質を瞬時に晒し、目論みどおり、艶の舞台裏を巧みな絵筆さばきで描いてみせた。
 もし仮に、その場で燃えて消える火の遊びと互いにわきまえ、禁断の葡萄を口に含み、林檎ならぬ桃を愛でてしまったら、のちのち燻りの種を残してしまったことだろう。たらればの話なのだけれどもね。

 そうそう、たらればといえば、選ばれなかった物語には、ほかにも路地に入り込むような複雑怪奇な進路がある。たとえば、どちらか一方が未練の花を束ねるだけ束ね膨らませ、止まなくなることが考えられもしよう。また、女は露ほどにも顔に出さぬが黒い企てを腹に含み、狡猾に意図を引こうとする場合もある。前者は未遂で、後者は策略。同じレイヤー上に並べられない二者ではあるが、可能性という縦軸は貫かれており、とくに後者にはトラップ性が高く、まんまと策略にハマってしまったら、据え膳食ったあとに「美味しかった、ご馳走様」で立ち去ることができなくなる。それはまさに、返しのある針の馳走にパクとありつくのと同じ。食いついたが最後、足掻こうがもがこうが抵抗は針を喉奥に食い込ませ、望むこと、祈ることも湧いては無意味に空に消え、人生の走馬灯をからからと回すことになる。気ままそのまま浮浪雲の楽しかった人性も、そこでジ・エンド、陰謀の据え膳食ったがゆえの大後悔広がり、以降、死ぬるまで男の愚痴が炸裂しつづけ、悔恨と懺悔の雄叫びをあげることになる。これを以って女人扱いの達人は『据え膳食ったがための男の愚痴』と称した、とか、称さなかったとか。

 据え膳食ったがための男の愚痴は、消えぬ残り火が醸す、取り返しのつかない軽率を戒める狼煙。食わぬ恥の後悔は淡く切なく罪はないが、食ったあとでは時すでに遅く、手枷足枷に縛られ、隷属の荊の道を行く。

 呼び水に誘い水、こっちの水は甘いぞと蜜の手招き、確かに壺に収まれば幸福至極、厳しい現実のこの世から、解脱、遊楽、極楽あの世へひとっ飛び。されど高みを目指した欲望は、舞い上がるだけ舞い上がったら、頂点を境に浮力を失うようにできている。最高潮でいちど止まった放心ごころは、直後に落下軌道に道筋を変え、地面へ加速しながら落ちていく。落ち着きどころの足場が気の確かなうちに覚悟できていたならば腹もくくれよう、事後も工面でやっていくこともできるだろうが、足場を見つけられないあと先考えない思慮足らずな愚者ならば、不沈の空母ほど頑丈だったはずの意志も、探知できたはずの魚雷を避けられずぽっかり心に穴を開け、明るい未来の予想図まるごと消失の現実に途方に暮れて、海に沈む。はい、それまでよ。

 据え膳食ったがための男の後悔は、暗い未来への出港。見せかけやもしれぬ一閃の光輝に胸躍らせ、飛んで火に入った報いはあまりに大きい。

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