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「練習したてでうまく泳ごうなんて、おごっていますよ」と、プール付きの先生は言う。教室のない時間帯は指導にあたることなく、先生は監視兼任で来館者に適宜アドバイスを行っていた。
「まずは右手で3回、左手で3回。息継ぎなしでここまでやってみて」

 バタフライはずっと憧れていた泳法で、投稿サイトやGoogle先生に教えを乞い、頭では理解したつもりでいたのに、見るとやるとでは大違いで、遅々として最初の一歩さえ踏み出せない状態だった。
 クロールや平泳でさえ労多くしてまともに前に進まないのに、バタフライとはおこがましすぎたのだろうか。いや、確かにおこがましすぎている。それは、自転車に乗れない初心者が、左右バランスを取れないレベルのうちにドロップハンドルのハイスペック・バイクを漕ぎ出すに等しかった。自転車なら、べダルに乗せた足を踏み込んでも、理想は具現化せず、均衡の取れない未熟者の上半身は車体と共に傾ぎ、傾斜が深くなり、それでも足で踏み込むものだから、地平線の均衡が一気に崩れ、転ぶ。倒れた自転車の後輪が、カラカラと空転の乾いた嘲笑をあげている。それと同じことが水の中で起こる。
 ぶくぶく。
 泳いでいるつもりが潜っていく。
 そもそもドルフィンキックの基礎ができていないのだった。だからプールに通い始めのころは「沈んで浮いて、沈んで浮いて。うねりながら泳げるようにすること」とアドバイスを受けた。両手を前に突き出し、上下にうねうねうね。イルカが尾鰭を動かすように、うねうねうね。
 ところがイメージする姿はいっこうに体現できず、うねうねで前に進まない。いくらやっても水をくぐり抜けていけない。腰を支点にギッコンバッタン、一箇所にとどまり水飛沫をあげているにすぎなかった。
「そうじゃなくって、うねうね、ね。わかりましたか?」
「はい。頭は理解しているのですが、現場の理解がおぼつかなくって」ジョークを言えるゆとりはあっても、推進力になっちゃくれない。
「あはは」
 諦観とも呆れとも取れる高笑いで一笑にふされたことがあった。
 
 それでも前に進みたい。腕の動きが加わればちったあましになるだろうってなことで腕を羽のごとく華麗に繰り出して、をイメージしてやるも、腕が水面に出ず、ぶくぶくと。
「ちと早いけど、ま、いいか」と先生に呆れ顔をされたけど、「いきなり両腕でやるんじゃなくって、片手ずつ。右手で3回、左手で3回。息継ぎなしでここまでやってみて」のアドバイスを受けたことの次第であった。
 
 先生はすでにわかっていらっしゃる。努力したことこそが、我が満足に直結するのだということを。泳げるようになるのは二の次。今日もいい運動できたなあ、が刻まれればよし。当初の目標からはかけ離れてしまったが、ランクをここまで落とさないと自尊心がもたないという現実もあった。
 
 うねうね、うねうね、うねうね。このリズムで右手で3回、左手で3回。努力はすれど、腕は水中で虚しく不発に終わる。うねうね、うねうね。今日もまた牛歩の歩みで、努力、積み重なる。物理的に牛歩ほどでも前に進めるようになればいいのに、今日もまた同じところでギッコンバッタン。

 ときどき、虚しくなる。オレ、いったい何やってるんだろう?

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