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想像が創り上げた世界は夢?

世界が存在しないと定義されたのは、誰ひとりとして世界を俯瞰した者がいないから。

遠景の山脈は見渡せても、私たちはひとりも世界の全貌を目にしていなかった。
私たちの言う世界は、無数の識者の視野をいくつも、幾重にも重ね合わせただけで、全体像は想像の産物。

かくしてマルクス・ガブリエルは、世界は存在していないことを理詰めで説明してみせた。
個々の主観の堆積に、世界存在を証明する確たる証拠は、たしかにないように思える。

仮定の上に築く構想が砂上の城であるように、出発点に疑いの余地を拭い切れない他者の視野を置く限り、導き出される答えが心もとないのも道理。

哲学は、変わった。
カントやラカンやショーペンハウエルが活躍していた時代は個人の内側を探る冒険だった。なのに今の哲学者ときたら、思考深化の軸足を個人から社会にすっかりと移している。

このことが物語るのは、社会なくして個人は存在しない、あるいはできない時代になったということだ。

ユヴァル・ノア・ハラリが思想の組み立てに時間軸を組み込んだとき、おのずと人と社会の深い関わり合いがあぶり出された。

農業革命や工業革命をとってみても、社会組織の歴史である。
人は組織の中でチェスの駒のように動かされ、息をし続けていくために人を翻弄し続ける渦を自らの手で広げている。それは、暮石のない墓穴のようにも見える。

個々の存在意義は社会から供与されるものとなり、受け入れ難いと首を横に振る腹の白い男たちは息の根をを止められ死んでいく。

世界に存在するすべては想像の落とし子。手に取れるものも実は手に取ったと勝手に錯覚しているだけかもしれない。

だけど、社会にも手出しのできない領域が残されていた。人は社会に生かされながらも、最期は個人に戻っていくしかないからだ。その領域だけは、さしもの社会でも手が出せない。

ショーペンハウエルが今の時代に声を届けてくれるなら、こんなことを忠告するような気がする。
「早く目覚めよ。今見ている世界のほうが夢なのだ」



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