時速80キロで生きる。
空腹が過ぎると体がエネジーを切望しすぎて、時速80キロほどの速度でメシをかっこまないと間に合わなくなる。速度を上げて走り続けていないと、腹を満たしたい欲求に追いつかないのだ。
ゴールは見えている。目の前の大盛り飯を平らげるまでの勝負。大丈夫。このくらい食い切れる。食い切れるどころか、足りないかもしれない。それでも、目的地に到達しないことには次がない。
で、食う。
速度のある食事が体によくないことはわかっている。血糖値もあがる。だが、食い終えたあとの満足感たるや。すんごい。
「食ったぁ」と、膨らんだ腹を狸のごとくぽんぽん打ち鳴らし、鼻鳴らし、高楊枝でげふっと満足のげっぷの狼煙あがればひと段落。
ふう。
食い終えると食う前までのぎらついていた飢餓の眼が優しくなる。きっと人にも優しくできるようになっている。
腹を満たすことは、平和の布石だ。
そんなことを、腹も減っていないのに三度の飯が定期的に供される環境で食いながら考えている。
がっつく必要のない食事は、安穏だ。よそ見もするし、よけいなことも考える。ゆとりとも言えるし、ブロイラーにされた気分にもなる。
日本の経済が踊り場でもたもたする前の成長期、人は多忙に酔い、働きすぎることに不平らしき文句を並べながらもまんざらではない顔をしていた。誰よりも働くことが勲章であり、誰よりも仕事で求められている立場に就くことに安堵していた。
ゆとりの世代を創造したことで結果的に経済力を衰退させていったことに気づいたのは、そんなに遠くない過去。
このままでいいのか? と時代はゆとり思考に問いかけた。
安穏と平和でやるのも悪かないけど、ちっともスリリングなところがない。
人はなぜジェットコースターに乗るのか? その解が最後のピースのように投げかけられた問いに収まった。
なんか、がっついて食う、そんな時代にもう一度身を置いてみたくなった。多忙は個を奪い、自分の時間を捻出することさえ難しかったが、時速80キロで生きていた時代は充実していた。少なくとも今より、はるかに。
ところで、なぜ80キロなのかって?
一般道ではなしえない遠くへ走るための高速域ってあるでしょう? その高速走行で制限速度いっぱいまで速度を上げて走り続けると疲れちゃう。それでも早く目的地に辿り着きたい。ぶっ飛ばしすぎるのも危険だからゆとりをもった高速運転。長く走り続けるために、適度に早い速度域で、安全域から脱することなく、スリリングさを残しながらも精神衛生上健全な速度で遠くまで。その速度が80キロかな、と閃いたものでして。
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