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ある飼い猫の悲劇。

 暖冬という気流に乗ったとて、航行する機体がエアポケットで落下するように、冬本来の寒さに我を失陥してしまうことがありまする。
 だから自分なりの最善策で対処していたというのに。

 その時、
               おーい。

                   おーい。

 虫の鳴く音量で声が聞こえてきたのです。
 その声は、遠くから静かに近づいてきては、離れては、この身に迫ろうとしては、剥がれては、それでも赤裸々に本性を剥き出しながら鬼の形相で食らいつきーーそんなふうに聞こえてくるのでありました。

 空気の塊を抜けてどすんと落ちたばかりの耳に、耳鳴りのように聞こえてくるのでありました。

      おーい。

   おーい。

 声は次第に迫りきて、ゾンビの声ならどうしよう、身の毛もよだつ怖いシーンに思いを寄せてみせました。
 じっさい、わたしは、よだたせると迫力満点の全身毛に覆われているのでございます。世の中、考え得ないことが現実に起こるものでございます。じっさいゾンビが現れたとて、なんの不思議もありません。

      おーい。
           おーい。

 呼ぶ声はわたしを見つけられずに、とうとう諦めたようではありましたけれども、諦めが悪い体質たちのようで、しばらくすると戻ってきたのでありました。
 わたしの心臓は遅めの早鐘から自制心を奪ったように、ゆるくかけていたブレーキから足が離れて加速度的な早鐘に姿を変えようとした矢先のことでした。

   おーい。

「おーい」は二度呼ばれず、代わりに「おいで」が付け加えられたのでありました。
 そして、ついに。その時がやってきたのです。 

 おーい。見つけたぞ。

「おーい」の声は炬燵布団をめくった隙間から、障壁なしのダイレクトに、ストレートな球速でわたしの耳に届いてきたのでありました。
 妙にクリアだと思ったら、そのせいでありました。

 せっかく人がぬくぬくぽわんとまどろんでいたのに。

 世には恐ろしいことが起こります。恐怖は不意に訪れるものなのです。

 やめてもらえませんか、とわたしはそのお方に問いました。人が気持ちよく寝ている時間を邪魔する権利は誰にもありませんよとわたしは目力をもってして教えてあげたのでございます。

 ところが、ですよ。敵もさるもの。目力返しをしてきたではありませんか。

 そのお方はわたしに、不躾を目で訴えてきたのです。

「おまえ、猫だよ」と。
 なんということでしょう。わたしを猫と平然と言ってのける。その腹の座ったこと。

 その方はわたしの首根っこをつまみあげ、ちょこんと人膝の上に乗せたのでございます。わたしをまるでモノのように粗末に扱ったその方は、なんと、このようにのたまったのでした。
「愛猫湯たんぽ!」

 まるでドラえもんがお腹からアイテムを取り出したような言い方でした。あまりに能天気な声だったので、わたしはがっくり肩を落としたのでありました。飼い主がこのレベルでは、心が冷えるばかりです。
 暖冬のエアポケットのような極寒日、わたしの心は震えに震えてしまったのです。これを悲劇と呼ばずして、なんと言えばいいというのでしょう。



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