エッセイ「問題提起する力」について
小学生から高校生くらいまでに解いてきた数多の「問題」と「答え」って、皆さんなんか変だと思いませんでしたか。仮にわかりやすく3+5が「問題」だとして、その答え「8」は既に先生(なり他の多くの人)が知っているわけですよ。だとしたら、今自分がここで3+5を正解しようが、間違えようが、ほとんどどっちだってよくないですか?
私が大人になって「問題提起的に生きたい」と言うときのその「問題」とは、それに対応する解答をまだ世界中の誰一人知らないような、そんな問題を構成したい、という意味です。その考えの真髄は『超人の倫理』から学び、実践は『アンチ・モラリア』や『内在性の問題』の中から読み取ってきたことは告白しますが、もちろんそれの完コピをやろうというわけではありません。自分の持っている偏りを活かして、もっと違った(イメージ的に言うとハードコアではなくポップな)ことをやっていきたいと思っています。
すべてがすべてとは言いませんが、今世の中に出ている「書評」なるもののほとんどに満足がいきません。それらは、書物がなそうとしていることを十全に、かつ分かりやすく読者に伝えることにばかり従事しており、その対象書籍の著者をどう出し抜いてやろうか、とか、どう裏をかこうか、といった問題意識がまるで感じられないのです。著者の、あるいは作品世界の音域を隅々まで感じとって、伝えて、終了。これではただの時短です。私が求めているのは、書籍の著者をして青ざめさせるような、そんな書評です。そのためには必ず「批判」が必要でしょう。批判は悪口ではありません。むしろ肯定的なものを引き延ばす創造的営みです。世の中に悪口は溢れていますが、ワクワクするような批判はほとんどありません。「答え」のある「問題」を解くのはただの仕事です。そんなんだから勉強がつまらないとか思われてしまう。勉強ほど楽しいものはないじゃないですか。あなたは鼻をかんだティッシュの、問題提起的なゴミ箱への入れ方について考えたことがありますか? 靴下の問題提起的な履き方について考えたことがありますか? 私はあります。問題提起は紙の上でだけなされるものではなく、一挙手一投足に宿るものだと考えているからです。『超人の倫理』には「他者に対して不可解な者になりたい」という決定的な著者のヴォイスが書き込まれています。しかもその直後に引くニーチェは、その不可解さが「驚嘆や学び」だと言うのです。「学び」というのは3+5を解いたときではなく、こういうときに使う言葉なのです。もっとこのパッセージには驚いていいと思います。
いつもながら結論などというものもないので、自由律俳句で〆ます。
貴女が立って居るだけで涙が止まらない
ーー菅原小春さんに捧ぐ