【連載企画】ジム・ジャームッシュ調とは何か(6)
(承前)
カール・マルクスは「命がけの跳躍」という表現を用いたが、それは映画という表現の根幹をなすと言ってもよいモンタージュについても当てはまる。そもそもモンタージュとは「つながらないもののつながり」であるからだ。
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『デッドマン』に特徴的で、「ジャームッシュ調」を決定づける刻印と言ってもよいあの黒画面はいったい何のためにあったか。黒画面においても、場面は切断されると同時に接続されるという効果を持っているのだ。
ジャームッシュは、『ナイト・オン・ザ・プラネット』と『コーヒー・アンド・シガレッツ』という二本のオムニバス作品も撮っている。そこではもはや「一本の映画」という統一的単位さえ解体されてゆくだろう。
「つながらないもののつながり」というテーマは、今度はまたジャームッシュに特有の「徴候」のテーマへと変奏されていく。
『ブロークン・フラワーズ』は、金は持っているがどこか冴えない中年の男(ビル・マーレイ)が、ひょんなことから昔のガールフレンドたちのもとを訪ね回るという作品だ。この映画(と続く『リミッツ・オブ・コントロール』)は、一言で言ってしまえば「徴候」の映画である。
美術館で見た絵や、些細な会話が、全部暗号めいたものとして主人公には映ずる。逆に言うと、それらを関係ないものとしては見ることができない。彼らは「読み取ってしまう」人なのである。
ヴェンダース『アメリカの友人』で、ブルーノ・ガンツがダニエル・シュミットを銃殺するまでの15分間はほぼ無音の視線劇であるが、ヴェンダースの「天使の視線」と、ジャームッシュの「徴候の視線」にも少し似たところが感じられる。きわめて解像度の荒い例えになってしまうかもしれないが、文学でいう中原昌也や青木淳悟らの「中性的エクリチュール」のようなものにもにも少し似ている気がする。似ているつながりでどんどん列挙してしまえば、キューブリックの『シャイニング』もそうである。これらの作品に特有の音域を私が好むのも、連載最初に述べた彼の時間感覚というところにつながるのかもしれない。
画面の特徴としては他に、クローズアップをあまり好まないというところが挙げられる。ジャームッシュはバスター・キートンが好きとどこかに書いてあった気がするが、それはまたデッドパン(無表情喜劇)の持つ尽きせぬ魅力ともつながってくるだろう。
さて、第6回まで来て、だんだん話がまとまりを欠いてきた。私の頭脳の限界か。おそらく次回が最終回になりそうだ。
(7)へつづく