総合と分析のイメージ
こんにちの「ふつうの」人が、「総合」と「分析」という言葉を聞いて、何をイメージするだろうか。またそれらが対概念であることを理解しているだろうか?
私も哲学の専門家ではないので、ふつうの人の一人として、ふつうの人向けに話したい。例えば「哲学とは総合的営為である」という言葉の意味をどう解せばよいのかを語ってみたい。
まず、一般的に考えられている意味を押さえておくと、「総合」とは色んなものがひとつに合わさることである。「統合」と似ているかもしれない。他方「分析」とは、何かを細かく調べる、みたいな意味で使われるが、この「細かくする」というところがポイントで、総合とは逆に1を2に、2を4に切り分けていくそんなイメージだ。
次にこれらの語の哲学的含意について述べる。まずはこの図式だけ頭に入れてもらいたい。
総合→原因からの認識
分析→結果からの認識
この両語は17世紀哲学ではこの意味で使われているが、それがこんにちまで生き延びている感はあまりない。だがよく考えれば意味はちゃんとつながっている。そのことを示すために、次にイメージ喚起的に説明してみよう。
こんこんと湧いている泉をイメージしてもらいたい。その泉の湧いている湧き出口というのか、一番おおもとのところがあるだろう。ここに仮にバルブでもあれば、その元栓を閉めれば一切水は出なくなる。「総合としての哲学」とは、イメージ的に言えばこの元栓にオペレーションをかけることである。「原因からの認識」というのは「おおもとから考えよう」ということである。「総合」の一般的意味(4を2にし、2を1にする…)も、結局は「おおもとから考えよう」というところできちんと一致する。「1」の思考というか、もっと言えば「0」の思考というか。
他方で「分析」についてはどうか。こんにち世界的に見て「分析哲学」なるものが主流であるようだが、そのひとつひとつについては私はよくわからないので述べられない。ただ「分析」という語のイメージで言えば、泉からドバーッ湧き出た水が、どこかで必ず地面に着地する。その着地したところの水についてやいのやいの言う、これがすなわち分析、「結果からの認識」だ。
こんにちの諸科学と手を取り合ったいわゆる哲学が、問題の分析にばかり終始しており、哲学の本来の意義である「総合」は長らく見失われている…。『アンチ・モラリア』の目次のあとの最初の扉ページには、だいたいそのようなことが書かれている。賢くない私は、その扉ページを(とりわけその「総合」と言う意味を正しく)理解するのに8年ほど要してしまった。カントのいわゆる「総合判断」「分析判断」というのはまた以上述べてきた意味だけでは収まらないものがあり、17世紀から入るか18世紀から入るかによって語の捉え方はまた変わるかもしれない。だが最初に述べたとおり、ここは専門の場ではないのでイメージがつかめればよいだろう。たしかにこんにち総合的アプローチというもの自体が稀有なものになっているように思われる。私も頭では理解しつつも全く実践できている自信がない。せめて読み手として、総合的アプローチの書物を読みたいと願うばかりである。最後にまた川柳で〆よう。
「勉強し酒飲んでまた勉強す」